「僕が64歳になっても」というビートルズの曲があります。
詩はポール・マッカートニーが10代のときに書いたもので、クラリネットの音色がほのぼのとした雰囲気を醸し出しています。と言っても「64歳」とグーグルで検索すると「退職準備」の記事の次に、この歌が出てきたので、YouTubeではじめて聞いたのですが。
何年も時が経ち
僕が年をとって、髪が薄くなっても
君はバレンタインのプレゼントや
誕生日のお祝い、ワインなんかを贈ってくれるかい?
もし夜中の3時近くになっても僕が帰らなかったら
君はドアの鍵を締めるかな?
僕を必要としてくれるかい? 僕を元気づけてくれるかい?
僕が64歳になっても
こんな感じに、歳をとっても自分を愛してくれるかいと、若者が恋人に問いかける、ほほえましい歌です。
しかし64歳は10代のポールが想像できる限界の自分自身の老人の姿だったのではないでしょうか。だいいち、夜中の3時まで飲んでいる元気な老人は、想像していて暗くはなりません。
先日、仕事先から花を贈られて、ああそんなこともあったかと思い、家に帰ると娘たちがケーキを用意してくれていて、ああそうだったかと再び思いました。これほど、みずからが年齢を重ねたことの実感の薄い誕生日は、初めてだったかもしれません。
そういう意味では「日々新た」に歳を重ねている、などとも考えました。
前にこのブログで、極楽浄土の位置を推測してみるという愚にもつかないことを書いたことがあります。光速で49日離れたところが「十万億土」で、ここに極楽浄土があるという玄侑宗久の小説のセリフから、それは「オールトの雲」という太陽系のヘリの部分ではなかろうかと、推測しました。そこは星くずの吹き溜まりのような場所で、極楽浄土の居場所としてふさわしいようにも感じました。
極楽浄土まではまだまだ遠いのだとは思いますが、64歳とは10代のポールが思い描いた、想像力のヘリの部分にいるように感じます。
そこは「日々新た」に暮らしていくには、ちょうどよい場所かもしれないとも思うのです。