能楽師の安田登さんは東江寺で定期的に開催される「寺子屋」や、全国各地での勉強会で『論語』を読み直す作業をしています。役者である自分には頭を使うことより身体を使う方が得意だと語る安田さんは、論語を孔子が生きていた頃に使われていた漢字に置き換える作業から始めます。口誦伝承で孔子たちの言行を音で伝えていた弟子達は、論語を編纂する際に弟子達の時代の漢字を当てることになります。弟子達に責任はないとしても、孔子の意図するところとは異なる意味が混入されてしまうからです。
そうやって古代の漢字に置き直された論語の言葉たちは、汎用性を身にまとう以前の漢字そのものが持つ身体性を強烈に宿しており、身体感覚にダイレクトに呼びかける力を持っています。
『身体感覚で論語を読みなおす』(安田登著 春秋社)では、安田さんの論語を読み解く過程を、実に明快に解説してくれています。
例えば「不惑」についての記述。安田さんの論語や孔子との距離感、そして読者との関係の取り方をひしひしと感じることができる箇所ですので、以下引用させて頂きます。
この句は『論語』嫌いを増やす句としても有名です。
「さて、自分もいい年になった。ここらで『論語』でも読んでみようか」と思ってページをめくるとこれです。四十を「不惑」だなんていうのは、少なくとも四十を超えた人は「冗談ではない」と思う。たかだか四十歳で「自分は惑わない」などという人はいません。当時の年齢の重みは今とは違うでしょう。八掛けだとすれば現代の五十歳くらい。いや、いや。六十歳と考えても「不惑」という境地に至るのはまだ早いし、難しい。
そこで「四十で惑わず」といい切る孔子は特別な人で、自分とは違うんだ。そして『論語』とは、そんなできもしない教訓を記した建前ばかりの本だ、と思ってしまいがちなのです。
しかも、この文は『論語』全体の雰囲気に少しそぐわない。
『論語』には、清冽な清水のような味わいがあります。いつ読んでも気持ちがよい。気持ちが鬱屈しているときなどは『論語』の適当なページを開いて、一文を読む。あるいは書き写す。そして、その言葉を含んで舌先で転がしていると、上質でしかも滑らかなお酒を味わうような端麗さを感じます。さらに時間が経つと、いつの間にか馥郁たる味に変化する。なんともいえない滋味があるのです。しかもいやらしくない。
そんな味わいの『論語』の中で「自分は四十歳になったときにはもう惑わなくなった」という孔子の言葉は変です。孔子はこんな自慢はしない。(前掲書 20頁)
そして安田さんが調べてみたところ、孔子が生きていた時代には「惑」という漢字は使われていなかったという事実にたどり着きます。
それでは孔子はここで何を言いたかったのか、漢字を置き換えることで推測することしかできません。このような場合、偏をとってみて、しかも音に大きな変化がない漢字が、候補として有望になります。
詳しい過程は省きますが、そうやって取捨選択しておそらく孔子が使ったであろう文字は「或」だ、という結論に安田さんはたどり着きます。
「或」とは、境界によって、ある区間を区切ること、分けることを意味します。境界を引いて限定し、狭い枠に囲い込むことが「或」だというのです。
そうすると、「四十にして惑わず」は次のような意味になります。以下、安田さんの文章を引用させてもらいます。
四十、五十になると、どうも人は「自分はこんな人間だ」と限定しがちになる。「自分ができるのはこのくらいだ」とか「自分はこんな性格だから仕方ない」とか「自分の人生はこんなもんだ」とか狭い枠で囲って限定しがちになります。
「不惑」が「不或」、つまり区切らずだとすると、これは「そんな風に自分を限定しちゃあいけない。もっと自分の可能性を広げなきゃいけない」という意味になります。そうなると「四十は惑わない年齢だ」というのとは全然違う意味になるのです。(前掲書 24頁)
『論語』雍也篇には、自らの限界を定めて、その先の努力を怠る言い訳にすることを厳しく諌めたくだりがあります。下村湖人の『論語物語』のなかでも感動的に綴られた箇所です。そこで「画」と記された「限界を区切る」意味と「或」の意味するところは同じなのでしょう。
諦めるな、言い訳をするな、自分の弱さを見定めて、その殻を打ち破る勇気を振るい起こせ。
弟子の冉求に対してだけではなく、自らに対する戒めとしてもそう考えていたのだとすると、孔子に対する尊敬の念は「不惑」を従来通り解釈するよりも、数倍増してくるように思います。