炉の点前がふすまを締め切ることから、11月の茶掛けの禅語には、小宇宙を描く言葉が選ばれるように思います。いずれも、閉じた小さな空間の内と外とで、全く違う世界が繰り広げられていて目の眩む思いがする、という意味の言葉です。
「壺中日月長(こちゅうじつげつながし)」の出典は『後漢書』に収められた奇譚です。
壺公という老人が、夕暮れ時になると身を隠してしまうのをいぶかしんだ役人が、壺公が壺の中に入っていくのを見つけて、中を案内させます。役人が驚いたことには、壺の中の世界は金殿玉楼がそびえ、広い庭園には花々が咲き誇っており、泉水も随所に設けられています。
役人は侍女たちから美酒佳肴のもてなしを受けたり、仙術の指導を受けたりして、時を忘れるほどに楽しく過ごしたのですが、やがて現実の世界に帰る日になりました。ところが本人は二、三日滞在したばかりと思っていたのに、十数年も時間は経っていたというのでした。浦島太郎のような仙境奇譚は、世界中にあるようなのです。
「開門落葉多 (門を開けば落葉多し)」は唐代の詩の一節で、次のような対句の後半です。
聴雨寒更盡 (雨を聴いて寒更尽き)
開門落葉多 (門を開けば落葉多し)
軒端をたたく音が草庵で夜更を過ごす侘しさを増し、夜具を通しても冷えびえとした空気が身に染みます。ところが、夜が明けて庭の潜り戸を開けてみると、一面に落葉が敷き詰められている様子が目に飛び込んできます。雨音とばかり思い込んでいた夜更けの音は、じつは秋風に吹かれて舞い落ちる落ち葉の音だったのです。
目の前の一面の落葉は、まぎれもなく現実なのですが、昨夜寒さのなかで侘しく聞いた雨音のほうが現実で、色鮮やかな落葉の景色はまるで幻のように眼前に広がっています。
氷雨が草庵に降りしきる寒々しい景色が、夜が明けて門を開くと一面の幻に変わるのは、「壺中日月長」とは逆の展開です。
壺(門)の内と外の、虚実がないまぜになった世界を描くという意味では、二つの話は共通しています。小宇宙のなかは幻であり現実でもあって、その二つの「あわい」に立つのが、炉によって演出される玄奥の世界なのかもしれません。