お茶の稽古の前に、禅語の本をパラパラとめくって、予備知識を得ておくのですが、そのなかで次の言葉に目が止まりました。
池成月自来 (池成って月自ずから来る)
出典は、13世紀南宋の禅僧の語録『虚堂録』です。
「池ができれば、その水に月は映じ、月が宿る」という意味の言葉で、月に表象される「仏性」は万物に、できたばかりの池にさえも備わっていると、解釈されるようです。しかし、その認識は美しいかもしれませんが、少なくともわたしを励ましてくれるものではありません。
池ができても、水を湛えていなければ、そして水面が鏡のように静かでなければ、月は映ずることはありません。月を映す条件を絶えず整えなければ、「自ずから」月は姿を現してくれないのです。「池成る」という言葉で、ある環境を倦まずに整えるという実践をも指すのであれば、この言葉からその努力のための励ましを、受け取ることができます。
前回、茶道の基本姿勢ににおいて道具と同期すること、弓構えにおいて弓矢と一体になることを述べました。しかし、冒頭の語について考えているうちに、わたしはそこで一番大切なことを書き忘れていたように思います。
弓矢をつがえて構える「弓構え」に、体と道具とが一体になるような感覚を抱くとしても、その裏では数えきれない反復練習がその感覚を支えています。弓構えの円相の姿勢をとれば、たちどころに道具との一体感が成就する、という手品はないのです。
茶道における「道具との同期」の関係も同じです。言葉で言うほど簡単なものではありません。稽古を重ねて、試行錯誤を繰り返し、物との距離が果てしなく遠く感じるような経験を積まなければ、その感覚は訪れることはありません。
同期の感覚など、ある結果が起こるための条件として、継続的な努力や働きかけが必要な、そういう関係があります。そして、それはふだんわたしたちが慣れ親しんでいる世界とは別ものなのだと、わたしはとらえています。そこには、因果関係ではとらえきれない、飛躍のようなものが必要だからです。言い換えれば、意志と実践によって開かれているけれども、必ずそこにたどり着けるとは限らない、たどり着くことへの希求だけが支えているような関係です。
おそらくこの、たどり着くことへの希求の姿勢において、思うに任せぬ他者に接することができるのだと思います。
茶道の話に戻ると、道具に同期する関係は、人知れぬ努力に裏打ちされていることを、亭主と客がともに経験的に共有しています。そして亭主にとっては客が、客にとっては亭主がたどり着くべき希求の対象なのです。お互いに希求の対象とする亭主と客が、絶えざる努力によって道具にたどり着こうとする感覚を共有することで、その関係はより重層的なものになります。
図式化してしまうと何でもないことですが、そのような主客の関係を築くことも、道具との関係を共有することも、本当に数少ない、得難い経験なのです。
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