『永仁の壺』(村松友視著 新潮社)を読みました。絶版本を古書店で見つけたものです。(Amazon中古にまだ在庫はあります)
永仁の壺事件とは、昭和三十四年「永仁二年」の銘をもつ瓶子が、鎌倉時代の古瀬戸であるとして国の重要文化財に指定されたものの贋作であることが明らかになり、二年後に重要文化財の指定を解除されることとなった事件です。重文指定を推薦していた文部技官小山冨士夫が引責辞任をするなど、美術史学界、古美術界、文化財保護行政を巻き込むスキャンダルとなりました。陶芸家の加藤唐九郎の作であったと本人も認めたものの、事件の真相についてはなお謎の部分が残されているといわれています。
小説は、著者の村松友視が小山冨士夫のぐい呑みに、立て続けに三度も遭遇するうちに、小山が深く関わった永仁の壺事件に引き込まれていく,という筋書きです。
永仁の壺はもともと、大戦中、中国大陸での影響力を確保しようとした国粋主義宗教家が、「白山冥利権現」を旗頭にしようと計画したことから始まります。大権現の総本山とした愛知県東北部から、劇的に鎌倉時代の瓶子が発掘されたというストーリーを捏造しようとしたのです。軍の南進とともにこの思惑は外れ、永仁の壺は死蔵されていたのですが、戦後当事者たちが詐欺事件に巻き込まれた穴埋めのために、永仁の壺は市場に出ていきます。つまり永仁の壺は製作の段階と流通の段階で、別々の詐欺的意図に操られていたようなのです。
戦後、我が国の貴重な美術品が、次々に海外に流出されるのを看過できないと考えていた文部技官の小山冨士夫は、この永仁の壺が流出するのを食い止めようと、重要文化財の指定を急ぎます。もちろん贋物などということは知るよしもありません。加藤唐九郎から古瀬戸の窯跡に連れて行かれ、本物だと信じ切っていたのです。
壺が贋物であることは、加藤唐九郎の長男の告白から明らかになります。小山冨士夫は責任をとって文部技官を辞任し、爾後いっさいこの事件について口を開くことなく、作陶の世界にのめり込んでいきます。美濃、信楽、京都、備前、萩、唐津と各地の窯を渡り歩いて、憑かれたように作陶の可能性を試す生涯を送ります。
小説は、事件を核にして「本物」と「偽物」についての様々な物語を展開し、加藤唐九郎と小山冨士夫の芸術に向き合う姿勢の対比に及ぶのですが、どうしても小山冨士夫の記述に重きが置かれることになります。作者の村松友視も、もともと小山冨士夫を主人公にするつもりだったのではないか、と思います。
小山が一橋大学在学中、社会主義に共鳴して大学を中退し、一労働者として出発するためにカムチャッカ行きの蟹工船に乗り込むくだりや、三か月の賃金を懐に青函連絡船で本土に帰る途中、気の毒な老婆に出会い、東京までの汽車賃を残して有り金を全てその老婆にあげてしまったくだりなどは、陶芸家に転進してからのストイックさ、事件の一切に口を閉ざす潔さにそのまま繋がっています。小山に関わった全ての人が、最晩年の酒癖の悪さに辟易したことを除いて、悪く言うことはなかったことからも、小山の高潔さは本物だったのだと思います。
事件をめぐる評価には、文部行政への批判や、行政と美術商との癒着関係なども絡んで、贋作じたいを批判するトーンは薄められます。むしろ、いわゆる芸術家たちの唐九郎崇拝、小山軽視とも取れる扱いが基調のように描かれているのが、不思議でした。
永仁の壺事件には、本物と偽物というテーマよりも、「事件」に対する責任の取り方にスポットを当てた方が、ずっと奥深い作品になったように思います。むろん、作陶に専念して諸国行脚した、小山冨士夫の生涯が題材になりますが。
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