犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

2年ぶりの秋季茶会

2021-10-24 20:59:00 | 日記

大濠公園の日本庭園で催された秋季茶会に参加しました。

私が大広間で薄茶の点前を担当してから、2年ぶりの茶会です。コロナ禍は実に2年近くも、私たちから行動の自由を奪ってきたことに改めて気付きます。

濃茶は感染対策で、本来の回し飲みではなく、客ごとに各々の茶碗でいただく「各服点て」の作法でした。私は師匠の次に座らせていただき、「次客」として勉強をする機会を得ました。来年の濃茶席は、わが社中の受け持ちなので、来年の段取りなどを師匠と話しながらの席でした。
来年の今頃は、回し飲みができるような環境が整っているのか、感染が収まっていたとしても、しばらく各服点ての作法が続くのか、誰にも予測ができません。そもそも、来年の秋に茶会が開催されるのかさえ、わからないのです。

ほんのひとときの晴れ間を目指して人が集まり、嵐が来る前に去っていく、そして次に会う日がいつかは分からない。核戦争後の世界を描いた映画のシーンはもうお馴染みのものですが、それが既視感のように甦ったようにさえ感じます。
著しい速度で変異を遂げながら、世界中に拡散する新型コロナウイルスの全貌は、時間的にも空間的にも人間のスケールをはみ出しています。その不気味さと付き合いながら、新たな存在の喜びを探し始めるしかないのが、現在なのかもしれません。

若い数学者、森田真生は大学などの研究機関に属さず、京都の郊外に「鹿谷庵」を開いて、学び、教育、研究、遊びを融合する活動をしています。森田の近著『僕たちはどう生きるか 言葉と思考のエコロジカルな転回』(集英社)のなかで、幼い子供と自然のなかで日々を過ごしながら、コロナ禍で生きることについて述べています。

本書のなかで森田は、アメリカの環境哲学者ティモシー・モートンの著書『ハイパーオブジェクト』を紹介しています。人間のスケールをはるかに超えたもの、例えば地球温暖化などにさらされた時、人間は異質な他者と付き合いながら少しずつ調子を合わせていくことを学びます。モートンはこれを「attunement 」(調音)と呼んで、波長を合わせること、適応していくことを生きる作法として提示しています。
我々が一見どんなに正しいと思っていることでも、意外な仕方で間違っている可能性があります。森田の素晴らしい表現によれば、「何をしても間違っている可能性があるくらい、この世は生態学的に豊か」なのです。

森田の語るところを、もう少し引用させていただきます。

自己の内部に閉じこもるだけでなく、他者と調子を合わせていく人間の能力。これを支えているのは、人間の「弱さ」だとモートンは語る。弱さとは、自力だけでは立てないことである。とすれば、エコロジカルな自覚とは、自分の弱さを自覚することでもある。
すべてのものは、自分でないものに支えられている。だから、自力だけで立てるものなどない。この意味で、人に限らず、ものはみな弱い。弱さは、存在の欠陥ではなく、存在とはそもそも弱いものなのだ。
僕は月を見上げて心動かされる。それは、僕が弱いからである。僕は、花を見て嬉しくなり、幼子の笑顔を見て思わず微笑んでしまう。僕は、僕だけでは立てないからこそ、僕でないものと響き合うことができる。弱さこそが、attunementを支えているのだ。(前掲書 38頁)

モートンや、それを引用する森田の著作には、深刻な主題を扱っているにもかかわらず、読むひとを暗い気持ちにさせることがありません。それは、不気味な現実に直面しながら、それでもどうすれば生き生きと生きることができるかを、追求しているからに他ならないと思います。

薄茶席も終えて、日本庭園を散歩していると、結婚式の写真の前撮りをしているカップルが何組もいました。ずっと披露宴を開けないまま、待ち遠しい日々を過ごした人たちなのでしょうか。披露宴を開かずに、写真だけの思い出にする若い人たちなのかもしれません。屈託のない笑顔の裏には、周りの環境に翻弄されながら、それでも折り合いを付けて幸せをつかみ取ろうとする姿があります。来年のことを思い悩むことなど愚かしく感じさせるような、思わず力づけられる光景でした。

来年の濃茶席は、周りの環境がどのように変化しようとも、それでも生き生きするような席にしたいと思います。

よろしかったらこちらもどうぞ →『ほかならぬあのひと』出版しました。

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