クライアントに毎月送る通信の末尾に、身辺雑記を書いているのですが、それがほぼ茶道の話に終始するようになってしまいました。仕事関係の話(税制関係)は、読んで面白くなく、書いていて腹が立つので、そうなってしまうのです。
顧客訪問の際には「高尚なご趣味をお持ちで」とか「枯淡の境地は羨ましい」などと言っていただくと、面映い反面、皮肉を言われているような、とても複雑な気持ちになります。というのも、枯れて生きることは難しいし、自分が枯淡の境地に達していると自惚れていることほど、見苦しいものはないと考えているからです。
枯淡の境地なるものを忌み嫌ったのが、坂口安吾でした。安吾は『枯淡の風格を排す』(『堕落論・日本文化私観 他二十二篇』岩波文庫 所収)という一文のなかで、執拗に攻撃を加えていて、あまりにも舌鋒が鋭いので、読んでいて心地よくなるほどです。
少し長くなりますが引用します。
「枯淡の風格」とか「さび」というものを私は認めることができない。これは要するに全く逃避的な態度であって、この態度が成り立つ反面には、人間の本道が肉や慾や死生の葛藤の中にあり、人は常住この葛藤にまきこまれて悩み苦しんでいることを示している。ところが「枯淡なる風格」とか「さび」とかの人生に向う態度は、この肉や慾の葛藤をそのまま肯定し、ちっとも作為は加えずに、しかも自身はそこから傷や痛みを受けない、ということをもって至上の境地とするのである。
(中略)
枯淡というと如何にも救われた魂を見るようであるが、実は逆に最も功利的な毒々しい計算がつくされている。小成に安んじ悩みのない生き方をしようと志す人々にとって、枯淡の風格がもつ誤魔化しは救いのように見えるかも知れぬが、真に悩むところの魂にとって、枯淡なる風格ほど救われざる毒々しさはないのである。
茶室の床の間に掛けられた、軸の禅語など、これはいかようにも解釈が可能で、たとえば「仏性はあまねく存在する」などと定型句のように口にすることは、「肉や慾や死生の葛藤」の末にようやく垣間見ることのできる「仏性」とは、最も遠いところにあるように思います。
人を深く愛すること、人を信じ賭けようとすることは、必ず傷や痛みを伴います。安吾が攻撃するのは、そういう賭けを遠ざけ「小成に安んじ」ることを良しとする生き方だと思います。そういう安易な生き方は、みずから傷つくことのない消費生活に耽溺し、ひたすらに時間を空費するというかたちをとることもあるので、欲にまみれていればよしという、簡単な話でもないでしょう。
逆に「肉や慾や死生の葛藤」に真摯に向き合いながら、枯れてゆく生もあるのだと思います。
佐藤愛子の『こんな老い方もある』(角川新書)を読み返していて、改めてそんな思いを強くしました。枯れながら葛藤するという姿がそこにあると思うからです。次の文章は66歳のときのものなので、老いに向かっての佐藤愛子の宣言でもあります。
これからの老後は老いの孤独に耐え、肉体の衰えや病の苦痛に耐え、死にたくてもなかなか死なせてくれない現代医学にも耐え、人に迷惑をかけていることの情けなさ、申しわけなさにも耐え、そのすべてを恨まず悲しまず受け入れる心構えを作っておかなければならないのである。どういう事態になろうとも悪あがきせずに死を迎えることができるように、これからが人生最後の修行の時である。いかに上手に枯れて、ありのままに運命を受け入れるか。楽しい老後など追求している暇は私にはない。
どんなに頑張っても人は老いて枯れるのが「肉や慾や死生の葛藤」の果ての、どうしようもない帰結です。そうならば、それに真摯に向き合って、老いの傷や痛みにひるまず、「そのすべてを恨まず悲しまず受け入れる」ことが、上手に枯れることに繋がるのだと思います。