犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

正月の遺言

2022-01-03 11:37:10 | 日記

玄侑宗久がまだ若い頃、禅宗の老師のなかにお正月に遺言を書く人がいるというので、ひどく引っかかりを覚えたのだそうです。
お釈迦様が入滅のとき「自分自身と法を拠り所とせよ。それ以外を拠り所としてはならない」という戒めを残していて、これを「遺誡(いかい)」と言います。死後にまで自分の意思を通そうとするのは、そういう潔さとは無縁だと思えたからです。

ところが、その老師が亡くなってみて、事の真相が明らかになりました。
遺言がしまってあるはずの抽斗を開けてみると紙切れひとつ残されていません。老師が遺言だと言っていたものは、老師が生きているうちに果たすべき事柄を書き記したもので、毎年正月に書き直していたのは、それらが達成されたか、別のかたちで課題が残されたからだったのです。

死んで遺言が残されれば、やるべき事柄が明らかになるので、誰かがそれをバトンを受けるように引き継げばよいのですが、それは遺された者が決めるべきことです。老師の死後に遺言は残されなかったということは、老師は生前になすべきことをすべて成し終えてしまった、ということを意味します。
玄侑宗久は、そういう死に方ができれば最高だろうと述べています。

これまでの人生で築き上げてきたものをどう遺すかの意思表示は、大事なことです。遺された者たちの争いを収める実際上の知恵と言ってよいでしょう。
しかしそれとは別に、残された人生の「To Do リスト」ともいうべき遺言があれば、遺言者みずからを導き励ますだけではなく、生きる姿勢を遺族に示すことができます。

遺言書には「付言事項」というものがあって、法的効力を持つことを目的としない、家族へのメッセージのようなものです。私は遺言について人から相談を受けたときには、この付言事項を充実させるようアドバイスしています。遺族の気持ちをほぐし、遺言の結論に至った理由も明らかになるからです。
そして、前述の老師の遺言は、それをもっと力強くしたもののように感じました。

家族に向けた優しいメッセージも大事ですが、遺言者自らに対する厳しいメッセージがあれば、遺された者たちは、粛然とそれに向き合わざるを得ないことでしょう。
財産よりももっと大きなものを、遺族はそこに見出すかもしれません。

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