10月19日(金)早朝から南九州市川辺町に出かけました。
例年であれば竹屋神社に奉納される太鼓踊りはありませんでした。せっかくなので川辺町内を回り秋景色撮影を楽しみました。
きれいに積まれた薪
作業小屋の横にきれいに積まれているのは杉丸太を小割にした薪。これほどの念入りな丁寧さは鹿児島語で言うところの「ねんしゃ」(念者)のようです。
朝日に輝くススキと掛け干し
ススキの穂が朝日に輝いていました。田圃道に車を移したものの農繁期の車が気がかり。何枚か写しましたが銀色の輝きは捉えることができませんでした。
こちらは大きな農業機械
大きなカニのはさみのようなものがあり、刈り取った稲を脱穀してケースの方に移すのでしょうか。後進しながら稲を刈るとも思えず、どのように使われるのか今一つ想像できません。
稲わらを集める装置?
稲わらをかき集める装置のようです。大型トラクターは新車のようで、ピカピカでどっしりと存在感がありました。一般的な高級車よりもさらに高価な感じがします。
広域農道を自走する大型トラクター
農業機械が公道をようやく走り、後ろに車が連なったのは昔のこと。エンジンも大きなものでしょう、巨大なタイヤの走りは一般の車と変わらぬスピードでした。
生垣の隙間から差し込むお日様
細かな枝葉の隙間からレンズを照らしますが、光の差し込みはわずかな位置の違いで見えたり見えなかったり。私の場合は太陽光線を直接写すことが少ないので面白い経験でした。
耕す足跡の面白さ
おそらく歩行式の耕耘機を押しながら耕したのでしょう。沢山ついた足跡が面白く、撮影画像をモノクロに変換してみました。
道に迷って茶畑に出る
観光案内板の記憶を頼りに高田磨崖仏を探し回るうちに広い茶畑に出ました。遠くに見えるのは薩摩富士とも呼ばれる開聞岳です。ここでも広大な茶園管理に大型機械が動き回っていました。すぐに引き返し、途中の分かれ道を車が多く曲がる方向に進んでみました。
たどり着いた高田磨崖仏
川辺町の中心部方向(北側)へ走ると意外にも道路左手に磨崖仏の岸壁がありました。観光案内板に示されている県道29号よりも東側に入った別な道沿いでした。
素晴らしい仏様がごく自然に彫られていて、岩屋観音のような観光地でもありません。もったいない気もしますが、観光地化して人が押し寄せ荒れるのは忍びないこと。廃仏毀釈の嵐を免れた仏様には現状のままが良さそうです。
高田石切場と磨崖仏の案内板
文化文政の時代(1803-1840)に開かれた石切場、1678から1711年にかけて彫られた磨崖仏とのこと。
高田石切場入口
磨崖仏の南隣にある命水汲み場は後で立ち寄ることにして高田石切場に向かいました。道路の東側には平坦な石畳の清流高田川があります。
水汲み場の南隣には石切場の跡らしきものがあり壊れた作業小屋が残っています。さらに南へ歩くと高田石切場の小さな案内板が立っています。
高田石切場の跡地 石灯籠が残っていました
看板から山側に少し入ると高い岸壁の石切場がります。いつ頃まで操業していたのか不明ですが、石の表面に作業跡が残っているように見えます。なぜか石灯篭も残っていました。まっすぐに切り立った岩壁はどのようにして形作られたのか興味深い場所です。
たかたの命水
高田(たかた)命水汲み場には切れ目なく車が来て多くの容器一杯に水を汲んでいました。普段の水道水とは大違いで、口に含むと甘く柔らかい感じがしました。業務用でしょうか車一杯に積み込む人もいました。
水質検査表が貼ってあり、最近では給水口の下に石段が追加され水汲みがしやすいと好評でした。名水というより命水がふさわしいのでしょう。奥にはきれいなトイレも設置され、一帯は地元の方々が大切に管理されています。
手持ちのペットボトル2本に高田命水をもらって帰りました。太鼓踊りは見られず残念でしたが、様々な出会いに恵まれ楽しい秋の一日となりました。高田村づくり委員会の皆様に感謝、感謝。
10月28日追記 太鼓踊りは10月21日に奉納
本日のテレビ局(鹿児島放送)報道によると10月21日(日)に竹屋神社に下山田西区の35人が踊りを奉納したとのこと。
これまでは10月19日の奉納でしたが、日曜日開催に変更されたようです。
11月22日追記 最後の石切職人は10月に他界
今朝の南日本新聞「記者の目」コーナーに、地元で最後の石切職人だった有薗喜利(きとし)さん(81歳)は10月に他界され、作業小屋が「たかたの命水」入口に残っていることを知りました。有薗さんの切り出した石で造った石碑や石柱が知覧武家屋敷群にあるとのこと。次の機会には出かけたいものです。
例年であれば竹屋神社に奉納される太鼓踊りはありませんでした。せっかくなので川辺町内を回り秋景色撮影を楽しみました。
きれいに積まれた薪
作業小屋の横にきれいに積まれているのは杉丸太を小割にした薪。これほどの念入りな丁寧さは鹿児島語で言うところの「ねんしゃ」(念者)のようです。
朝日に輝くススキと掛け干し
ススキの穂が朝日に輝いていました。田圃道に車を移したものの農繁期の車が気がかり。何枚か写しましたが銀色の輝きは捉えることができませんでした。
こちらは大きな農業機械
大きなカニのはさみのようなものがあり、刈り取った稲を脱穀してケースの方に移すのでしょうか。後進しながら稲を刈るとも思えず、どのように使われるのか今一つ想像できません。
稲わらを集める装置?
稲わらをかき集める装置のようです。大型トラクターは新車のようで、ピカピカでどっしりと存在感がありました。一般的な高級車よりもさらに高価な感じがします。
広域農道を自走する大型トラクター
農業機械が公道をようやく走り、後ろに車が連なったのは昔のこと。エンジンも大きなものでしょう、巨大なタイヤの走りは一般の車と変わらぬスピードでした。
生垣の隙間から差し込むお日様
細かな枝葉の隙間からレンズを照らしますが、光の差し込みはわずかな位置の違いで見えたり見えなかったり。私の場合は太陽光線を直接写すことが少ないので面白い経験でした。
耕す足跡の面白さ
おそらく歩行式の耕耘機を押しながら耕したのでしょう。沢山ついた足跡が面白く、撮影画像をモノクロに変換してみました。
道に迷って茶畑に出る
観光案内板の記憶を頼りに高田磨崖仏を探し回るうちに広い茶畑に出ました。遠くに見えるのは薩摩富士とも呼ばれる開聞岳です。ここでも広大な茶園管理に大型機械が動き回っていました。すぐに引き返し、途中の分かれ道を車が多く曲がる方向に進んでみました。
たどり着いた高田磨崖仏
川辺町の中心部方向(北側)へ走ると意外にも道路左手に磨崖仏の岸壁がありました。観光案内板に示されている県道29号よりも東側に入った別な道沿いでした。
素晴らしい仏様がごく自然に彫られていて、岩屋観音のような観光地でもありません。もったいない気もしますが、観光地化して人が押し寄せ荒れるのは忍びないこと。廃仏毀釈の嵐を免れた仏様には現状のままが良さそうです。
高田石切場と磨崖仏の案内板
文化文政の時代(1803-1840)に開かれた石切場、1678から1711年にかけて彫られた磨崖仏とのこと。
高田石切場入口
磨崖仏の南隣にある命水汲み場は後で立ち寄ることにして高田石切場に向かいました。道路の東側には平坦な石畳の清流高田川があります。
水汲み場の南隣には石切場の跡らしきものがあり壊れた作業小屋が残っています。さらに南へ歩くと高田石切場の小さな案内板が立っています。
高田石切場の跡地 石灯籠が残っていました
看板から山側に少し入ると高い岸壁の石切場がります。いつ頃まで操業していたのか不明ですが、石の表面に作業跡が残っているように見えます。なぜか石灯篭も残っていました。まっすぐに切り立った岩壁はどのようにして形作られたのか興味深い場所です。
たかたの命水
高田(たかた)命水汲み場には切れ目なく車が来て多くの容器一杯に水を汲んでいました。普段の水道水とは大違いで、口に含むと甘く柔らかい感じがしました。業務用でしょうか車一杯に積み込む人もいました。
水質検査表が貼ってあり、最近では給水口の下に石段が追加され水汲みがしやすいと好評でした。名水というより命水がふさわしいのでしょう。奥にはきれいなトイレも設置され、一帯は地元の方々が大切に管理されています。
手持ちのペットボトル2本に高田命水をもらって帰りました。太鼓踊りは見られず残念でしたが、様々な出会いに恵まれ楽しい秋の一日となりました。高田村づくり委員会の皆様に感謝、感謝。
10月28日追記 太鼓踊りは10月21日に奉納
本日のテレビ局(鹿児島放送)報道によると10月21日(日)に竹屋神社に下山田西区の35人が踊りを奉納したとのこと。
これまでは10月19日の奉納でしたが、日曜日開催に変更されたようです。
11月22日追記 最後の石切職人は10月に他界
今朝の南日本新聞「記者の目」コーナーに、地元で最後の石切職人だった有薗喜利(きとし)さん(81歳)は10月に他界され、作業小屋が「たかたの命水」入口に残っていることを知りました。有薗さんの切り出した石で造った石碑や石柱が知覧武家屋敷群にあるとのこと。次の機会には出かけたいものです。