2月7日(月)寺山公園を下りて鹿児島市本城町へ向かいました。
桐野利秋の開墾地跡 案内板 以下の画像は2月7日に撮影
鹿児島市本城町(吉田)宇都谷に移動して、桐野利秋開墾地への入口にある梅の木を見に行きました。まだ花は咲いておらず、その先の開墾地跡を訪ねました。
付近の白梅 以下の画像は2月7日に撮影
廃屋と空き家があり、周辺部の一部は耕作されています。どのあたりが開墾地なのか、山手側だろうと思いますが、枯草に覆われて全容は判りませんでした。
枝先に一杯花をつけている
梅の木は人の暮らしがそこにあったことの名残りでしょう。他の木々に混じり力強く枝を伸ばしていました。
公園の鑑賞木のように手入れされることもなく、自然のままに逞しく生きる力強さを感じます。
桐野利秋 田蘆碑
田蘆(でんろ)とは開墾のことで、開墾時の暮らしぶりなどが石碑に刻まれています。
石碑横の白梅
桐野利秋田蘆碑のすぐ横の林に白梅があり、枝先に白い花を咲かせていました。
石碑について、明治維新とかごしま見て歩き(鹿児島県観光連盟)のページから引用して紹介します
中村半次郎こと桐野利秋が西郷隆盛の下野に従って明治6年鹿児島に帰ってのち農業に従事した場所が、吉田郷宇都谷久部山(現鹿児島県鹿児島市吉田)です。
旧知の人物・山下孫兵衛の援助を受けこの地に水田四反歩・畠五反余を開き、作業小屋に妻・久と暮らしたと伝わります。
西南戦争に従軍した桐野の死後、孫兵衛は自ら農業に励んだ桐野のことを顕彰するため記念碑を建てました。(引用終わり)
吉田 谷上地区の梅
最期は鹿児島市本名町(吉田)の谷上(たにかみ)地区 道路横の白梅
花の撮影でよく訪れる場所です。冬の寒さに耐えてきた山間の地に、白梅が春の訪れを告げていました。
菜園と梅 手入れの行き届いた菜園
昭和の頃は多くの家で庭先に梅、ビワ、柿、ミカンなどの果樹がありました。農家以外でも庭先の小さな菜園に、日常使う野菜を植えていました。
大きな農家では牛や馬を飼育し、荷馬車を引かせ、広い田畑を耕していました。
大きな梅の木 民家入口にあり、他よりも特に目立つ大きさでした
農村部の過疎高齢化は止まることがなく、昔ながらの里山風景が荒れていくのは寂しいものです。
桐野利秋の開墾地跡 案内板 以下の画像は2月7日に撮影
鹿児島市本城町(吉田)宇都谷に移動して、桐野利秋開墾地への入口にある梅の木を見に行きました。まだ花は咲いておらず、その先の開墾地跡を訪ねました。
付近の白梅 以下の画像は2月7日に撮影
廃屋と空き家があり、周辺部の一部は耕作されています。どのあたりが開墾地なのか、山手側だろうと思いますが、枯草に覆われて全容は判りませんでした。
枝先に一杯花をつけている
梅の木は人の暮らしがそこにあったことの名残りでしょう。他の木々に混じり力強く枝を伸ばしていました。
公園の鑑賞木のように手入れされることもなく、自然のままに逞しく生きる力強さを感じます。
桐野利秋 田蘆碑
田蘆(でんろ)とは開墾のことで、開墾時の暮らしぶりなどが石碑に刻まれています。
石碑横の白梅
桐野利秋田蘆碑のすぐ横の林に白梅があり、枝先に白い花を咲かせていました。
石碑について、明治維新とかごしま見て歩き(鹿児島県観光連盟)のページから引用して紹介します
中村半次郎こと桐野利秋が西郷隆盛の下野に従って明治6年鹿児島に帰ってのち農業に従事した場所が、吉田郷宇都谷久部山(現鹿児島県鹿児島市吉田)です。
旧知の人物・山下孫兵衛の援助を受けこの地に水田四反歩・畠五反余を開き、作業小屋に妻・久と暮らしたと伝わります。
西南戦争に従軍した桐野の死後、孫兵衛は自ら農業に励んだ桐野のことを顕彰するため記念碑を建てました。(引用終わり)
吉田 谷上地区の梅
最期は鹿児島市本名町(吉田)の谷上(たにかみ)地区 道路横の白梅
花の撮影でよく訪れる場所です。冬の寒さに耐えてきた山間の地に、白梅が春の訪れを告げていました。
菜園と梅 手入れの行き届いた菜園
昭和の頃は多くの家で庭先に梅、ビワ、柿、ミカンなどの果樹がありました。農家以外でも庭先の小さな菜園に、日常使う野菜を植えていました。
大きな農家では牛や馬を飼育し、荷馬車を引かせ、広い田畑を耕していました。
大きな梅の木 民家入口にあり、他よりも特に目立つ大きさでした
農村部の過疎高齢化は止まることがなく、昔ながらの里山風景が荒れていくのは寂しいものです。