先週土曜日(2月24日)、『久高島オデッセイ』という記録映画を観に行った。上映している映画館は毎度御馴染みの、私の大好きな桜坂劇場。桜坂劇場だからこその地味な映画。利益が出るかどうかだけで上映を判断する大手のシネコンにはできないこと。
『久高島オデッセイ』は地味ではあったが、深い映画であった。特に劇的な出来事があるわけではない。久高島の日常を淡々と映しただけ。
「久高島と言えば、イザイホー」との書き出しで、イザイホーの大雑把なことを既に沖縄の雑談『 映画を紹介するちらしには「(大重監督は)人間として生きることの本質を悟り、「生きる」とは”食うこと”、”排泄すること”、”希望を持つこと”に集約されると気づき始めた。」とあった。これは、この文章を書いた人がおそらく、言いたいことの多くを端折っているのだと思う。”食うこと”、”排泄すること”が「生きること」については私の感覚と同じなのだが、もう一つ揚げるとすれば、”希望を持つこと”を、少なくとも私は選択しない。映画を観た限りでは、もう一つは”祈ること”になると思う。
今、これを書いているのは『久高島オデッセイ』を観に行ったその日の2月24日。映画を観て、トークショーを聴いて、デパートに行って、日本酒と肴(真ダコの刺身など)を買って、バスに乗って、車窓から差し込む陽差し(暑かったぜ)に汗をかいて、家に着いたのは午後2時半。一服して、窓から差し込む陽差しに「暑いぜ!」とブツブツ言いながらキーボードを叩いている。部屋の気温は26度。
部屋の気温は26度だが、陽差しの下はもっと暑い。桜坂劇場からデパートへ向かう途中の国際通り、行き交う人々の多くは上着を脱いでいた。観光客らしき若い女性のグループが、「暑いねー」、「夏みたい」と会話していた。ウチナーンチュの私はしかし、「お嬢さんたち、それは甘いぜ。沖縄の夏はこんなもんじゃないぜ。沖縄の夏の太陽はこんなに優しくはないぜ」と心の中で言う。この日の陽差しは「春みたい」なのである。
いやいや、春でも夏でも、あるいは秋でも冬でもいいのである。春や夏や秋や冬が存在していることへ感謝せねばなるまい。地球温暖化は大きな問題だが、将来の不安の種にもなっているが、地球はまだ多くの生命に満ち溢れている。私個人が存在していることにも感謝はするが、それは砂漠の砂の1粒のようなもの。空が存在し、空気があり水があり、太陽があり月があり、山があり海があり、草木があり動物たちがいる。そういったもの全ての存在に感謝せねばなるまい。久高島の人々の祈りは、「森羅万象が存在していることへの感謝の祈り」なのではないかと、私は映画を観て、感じたのであった。
なお、久高島ほど頻繁では無いが、神への祈りは沖縄島の日常にもある。私の母は月に2度、仏壇とヒノカン(火の神)へ供え物をし、何やら祈っている。街のあちらこちらにはウガンジュ(御願所)もある。それらのことについては、いずれまた別項で。
記:2007.2.24 ガジ丸