ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

対岸の火事、ダーウィンの悪夢

2007年03月16日 | 通信-音楽・映画

 5年ほど前に退職した元同僚Aさんは、私の住んでいるアパートから徒歩5分ほどの場所に家がある。でも、退職してからはほとんど会っていない。3年ほど前まではバイクに乗っている姿を見かけたり、近くのスーパーでばったり会ったりした。同じ頃、選挙の投票所で偶然会って立ち話をしたのを最後に、最近までずっと、Aさんの姿を見ることは無かった。で、彼のことはすっかり忘れていた。
 先日、3月の初め頃、会社帰りの車の中から約3年ぶりにAさんを見た。彼は、ちょうど交差点を曲がったところの細い道の傍にいた。建物の外階段に座っていた。細い道に入ったところなので、車は停車する直前のような速度、私はすぐに気付いて彼の顔を凝視する。私に気付いてくれたら挨拶しようと思ったが、彼の目は、私の方を見ているような見ていないような、何か、途中の空気を見ているような感じだった。

 それから1週間ほど経った先週の土曜日、夜、模合(モアイ、理由のある飲み会)があり、場所が国際通りに近い場所だったので、ついでに映画を観に行くことにした。家を出てバス停に向かう。バス停の傍に芝地があって、その芝の上にAさんがいた。膝を抱える体育座りをしていた。今度は私も徒歩なので、Aさんの顔を見つめながら近付いていき、声を掛けようとした。Aさんの顔はこっちを向いている。目線もこっちを向いている。でも、その目は私の方を見ているような見ていないような、やはり何か、途中の空気を見ているような感じだった。私のことを覚えていないみたいであった。

 Aさんとは10年間ほど仕事を一緒にしている。炎天下の中、肉体労働で死ぬほどの汗をかき、苦労を共にしている仲間であった。ところが、Aさんと飲みに行った経験は一度も無い。彼は、我々が誘っても一緒に飲みに行くことは無かった。
 後で聞いた話であるが、Aさんは酒飲むと人が変わるとのことであった。いわゆる、酒乱ということである。なので、我々と飲むことを遠慮したみたいである。
 中空を見ているような虚ろな目も、苦労を共にした仲間の顔を忘れるのも、酒の飲み過ぎの影響なのかと、私は国際通りへ向かうバスの中で思った。

 その日観た映画は、大好きな桜坂劇場でやっていた『ダーウィンの悪夢』。映画を観る前に、その紹介チラシの文章をほとんど読まない私は、『ダーウィンの悪夢』を、「地球環境の汚染や変化によって、遺伝子がおかしくなったよ」っていう内容の映画だと思っていた。『ダーウィン』からそう連想したのだが、内容は、大雑把に言えば、先進国がアフリカを食い物にしている、というようなことであった。
  武器や弾薬が入ってこなければ、アフリカの戦争は減る。戦争が少なくなれば、アフリカの飢餓も減る。概ね平和であれば、アフリカの人々も安心して大地を耕せる。子供たちは学校に行き、勉強して、より豊かで平和な国を自らの手で創り上げることができる。武器や弾薬が入ってこなければ、そうなる可能性が高い。少なくとも希望はある。
 しかし、武器や弾薬は入ってくる。先進国の武器商人たちは、自分たちがキャビアやフォアグラを食べたいがためにアフリカの人々が殺し合いをすることを望む。隣人の不幸が我が幸福というわけである。「そうであるか」と私は深い溜息をつく。
 実は、映画を観ての私の感想は、その深い溜息だけであった。スクリーンにはずっと重たい空気が流れていたが、アフリカは遠い場所であり、そこに描かれている悲惨は、あまりにも平和日本の現状とかけ離れていた。なので、『ダーウィンの悪夢』で描かれていることは、私にとっては対岸の火事という気分であった。映画を観る前から観た後まで、私にはAさんのことが此岸の火事となって、心に付きまとっていた。
          

 記:2007.3.16 ガジ丸