ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

瓦版074 マミガジの絵本5

2008年11月07日 | ユクレー瓦版

 金曜日の午後、村を一周りして、村の人たち数人と挨拶を交わして、夕方、いつものようにユクレー屋へ向かう。その途中、マミナ先生の家へ寄った。
 「あんた、ちょうどいいところに来たさあ。」と彼女は言って、薄い冊子を1冊、私に手渡した。絵本だった。マミガジの新作みたいである。
 「絵本だね。久しぶりだね。前の『わくわくわくせい』から約3ヶ月ぶりだね。」
 「そうだね、このところちょっと忙しかったからね。」
 「じゃあこれ、ユクレー屋に持って行って、皆に見せるんだね。」
 「うん、皆に読んで貰って感想が聞きたいさあ。私も後で行くからね。」

  ということで、今週はマミガジの絵本その5の紹介。ではあるが、ユクレー屋へ向かうその道中、歩きながら、先に読んだ。で、ちょっと私の感想。
 題は『かもしかもしかも』とある。パッと見には意味不明だが、本文を読んだらそれが何のことだかすぐに分った。何が言いたいのかということも分りやすい。「もしかもしかもしかなら争うことも無かったんだ。」と言う若者に対し、「違う人種や民族が互いの存在を認め合い、理解し合うこと。」という長老の言葉が、この絵本のテーマだ。とは思うが、絵本は未完だった。不安を残したまま終わっている。「つづく」と書いてある。続きが知りたい。が、「つづく」の後に「かもしれない」とある。うー、気になる。

 絵本を読み終わった頃にはユクレー屋に着いた。すると、マナとケダマンが「もしかもしかもしかなら」なんて言っている。ありゃ、二人は既にマミガジの新作を読んだのかと思ったら、彼らの言う「もしかもしかもしかなら」は別の意味であった。
     

 記:ゑんちゅ小僧 2008.11.7 →絵本(かもしかもしかも)


自由の代償

2008年11月07日 | 通信-社会・生活

 自由の国アメリカの「自由」は、昔、何かの本で読んだことがあるが、開拓時代、誰でも自由に土地を開墾して良いという「自由」を源にしているらしい。先住民の土地を力ずくで奪うという乱暴な「自由」だが、いずれにせよ、それによって、「自由は尊い」という思想がアメリカ人の多くに根付いていると思われる。
 アメリカ映画を私はあまり観ていないので確かなことは言えないが、「自由は尊い」というテーマの映画もアメリカには多くあるに違いない。少なくとも、私が若い頃、30年ほども前に観た『カッコーの巣の上で』は、そういう映画であった。

  私もまた、アメリカ人では無いのだが、「自由は尊い」と強く思う。肉体的に拘束されるのも嫌だが、精神の自由を奪われるのは激しく嫌である。私がもし、何かの罪を犯して刑務所暮らしになったとしても、そこで、「起きろ」、「食え」、「寝ろ」などと起床や就寝、食事などをいちいち命令されたとしても、きっと耐えるだろう。しかし、「こう考えろ」、「こう思え」、「こう感じろ」と命令されたら、それは「無理です」となる。幸いにも、日本の警察は囚人の心のコントロールまでは行わないと聞いている。
 そういえば、心をコントロールするというおぞましい映画があった。キューブリック監督のイギリス映画『時計仕掛けのオレンジ』。これも30年ほど前に観ているが、この時も確か、『カッコー・・・』同様、映画の途中で大いに憤慨した記憶がある。

  先日、いつもなら隣室の風呂場の窓辺にいるはずのネコがベランダにいた。隣の若い女性が飼っているネコだ。風呂場に目をやると、そこの網戸が大きく破れていた。ネコは網戸を破って脱走したようである。きっと、自由を求めたのだ。「やった!俺は自由だ。」と思っているに違いないネコに、「がんばれよ。」と私はエールを贈った。
 階段を下りようとする私を、ネコはブロック塀の隙間から顔を出し、見送る。その顔はしかし、「やった!俺は自由だ。」という晴れ晴れとした表情では無い、何か物欲しげな顔、あるいは何かお願いしている顔に見える。「がんばれよ。」と再び声をかける。
  その後もネコは隣室のベランダ、階段辺りにいて、せっかく手に入れた自由を満喫していないみたいであった。翌日には階段下の畑にいて、またも物欲しげな顔をして私を見上げた。鳴き声も情けない声だ。もしかしたら、後悔の溜息かもしれない。
 おそらく彼は、破れた網戸から中に入ることができないのであろう。そして、網戸を破られた隣の住人は、「恩を仇で返しやがって」と憤慨して、ネコを中に入れないのであろう。ネコにとって自由の代償はどうやら高く付いてしまったようだ。寝そべっていて餌が貰えるという大きな幸福を失くすことになってしまったようだ。

  束縛されることの嫌いな私は今、「自由の心地良さ」に浸りきっている。結婚したら女房にあれこれ指図されるだろうな、それは嫌だな、などと想像して、おかげで私は結婚できない(ということにしておこう)のだ。家に帰るといつも独り、喜びや悲しみを分かち合えるパートナーがいない、などは自由の代償と私は認識している。
 なお、隣の女性は私とは違いネコに優しい人のようで、ネコが脱走して2日後には、窓を開けっぱなしにして、猫の出入りを許した。
          
          
          
          

 記:2008.11.7 島乃ガジ丸