ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

食本位制

2009年08月14日 | 通信-社会・生活

 通貨の価値は金本位制によっているらしい。金本位制って何だ?・・・難しいので、私もちゃんと理解しているわけでは無い。で、広辞苑、
 きんほんいせい(金本位制)
 「定重量の金とが金兌換・自由輸出入を通じて等位関係で結びつけられている制度。」とのこと。この説明も難しいが、金1グラムに対して、それぞれの通貨がいくら支払うかということだと理解する。金は質に変化が無く、価値が安定しているからであろう。
 食料はその価値が変動するので、そういう意味では金本位制の代わりにはならないが、しかし。国の政策としては「食の安全、食の安定供給」を本位(=基本とする標準。中心になるものby広辞苑)としてもいいのではないかと思う。

 金本位制の金は金銀銅の金(きん)であるが、食本位制で私が対照としているのはその金では無く、円やドルといったお金(かね)の方。食い物が余るほどあると、余った分は腐らせてしまうだけなので、その意味では食い物よりもお金の方がいい。お金は腐ることは無い。しかし、食い物が無ければ、お金がいくらあっても生きていけない。
 価値の基本となるものは物である。食い物だけで無く、着る物や住む家なども含めた生活のために必要な物。例えば、魚や服には米いくら分といった価値がつけられる。魚や服を買うのにいちいち米を持ち歩く、あるいは逆に、米を買うのにいちいち魚や服を持ち歩くのは面倒なので、便宜的にそれらの物はお金に替えられる。
  便宜的に、お金によって米や魚や服はその価値の数値が示される。しかし、その数値はあくまでも「実態のある物」そのものの価値である。つまり、100円分の米は100円の価値ということでは無く、基本的には100円分の魚や服と替えられますよという価値である。お金は、物があるからこそ成り立つ存在である。

 まあ、基本的にはそうだと私は思うのだが、世の中はそうでは無い。人間の欲望もお金に替えることができるので、そこにさまざまなシステムが作られる。
 食うだけでは人間は生きてはいけない。人間には子孫を残したいという大欲がある。子孫を残すためにはパートナーを得なければならない。パートナーを得るためにはお金が大きな力となる。お金で身を飾り、相手の心を惹きつけることができる。お金はまた、生きていけるという安心感を与える。お金がたくさんあれば贅沢ができ、楽に生きることができる。それは相手にとって大きな魅力となる。お金こそが幸せの力となる。
  よって、お金そのものに大きな価値が与えられ、お金でお金を買うとか、お金でお金を生み出すというカラクリもできる。「お金本位制」の社会だ。

 幸い、私は既に子孫を残したいという大欲が薄れ、独り者で、養う家族もなく、お金をさほど必要としない。体を摺り寄せてくるお姉ちゃんのいる飲み屋にも、今はほとんど興味が無い。上等の家や車を持とうなんて気もさらさら無い。
 というわけで私には、遊ぶお金が無いなんていう不安は無い。ただ、少々貧乏なので、食うお金も無くなるという不安はある。なので、国の政策としてだけでなく、私自身のこれからの生活設計でも「食の安定供給」を本位にしなければならない。
          
          

 記:2009.8.14 島乃ガジ丸


丈夫で長持ちというエコ

2009年08月14日 | 通信-環境・自然

 1週間のうちの4食は芋食というのを概ね続けている。そのせいかどうか、1日、朝食後の1回だった雲子が、時々夕食後にも出たりする。いずれも、糞張らなくても勝手に出るし、糞切りも良い、スカッとスッキリ爽やか快便である。
 芋は煮たり蒸したり焼いたりして食う。焼く時はオーブントースターを使う。輪切りにして焼いて、それにチーズやハム、キュウリなどを乗っけてカナッペ風に食べていたが、それだと酒が飲みたくなるので、最近は丸ごと焼いている。

 先日、いつものように芋をオーブントースターで丸ごと焼いていたら、何か焦げ臭い匂いがした。まだ4、5分しか経っていない、焦げる時間じゃない。「何で?」と思いつつオーブントースターの扉を開ける。開けて空気が入ったのがきっかけになったのだろう、オーブントースターから火が出た。すぐに扉を閉める。スイッチを切る。数秒後に火は収まった。ガラス越しに火の出所が見えた。熱を出す管が燃えていた。
 しばらくして蓋を開け、見ると、火が出ていた箇所で管が折れていた。折れたから燃えたのか、燃えたから折れたのか知らないが、こんなこともあるんだと驚き、焦げ臭さに気付かなかったら火事になっていたかもしれないと、少し恐さを感じた。

  私のオーブントースターは、はっきり覚えていないが、おそらく買ってから10年以上は経っている。でも、老衰による死ということではなく、過労死。写真を見てお判りの通りたいへん汚れている。パンを焼くよりも魚を焼くことが多いからだと思われる。魚の脂で汚れているのだ。汚れても洗わないので10年分の汚れが溜まっている。これではさすがに、「あなた、わたしはもう疲れましたわ。」となったのであろう。
 「そうか、疲れたか、私が酷使しすぎたんだな、申し訳ない。しかし、10年間よく耐えてくれた。ご苦労さん。」と私は彼女(オーブントースターのこと)を労いながら、ゴミ袋に入れ、少々反省しつつ、新しい彼女を求めに電気屋へ行った。
          

 思えば、私の部屋の中にある電気製品で、オーブントースターは古株の一つだ。彼女より古いのはドライヤーと食器乾燥機くらいだ。テレビ(パソコン)、ステレオ、CDデッキはまだ5年くらい、冷蔵庫や洗濯機や扇風機もそれよりちょっと古いくらい。どれも引っ越してきた当時のものでは無い。冷蔵庫、洗濯機、ステレオ、CDデッキはまだ2代目だが、テレビ(現在はパソコン兼用)は3代目、扇風機なんかは4代目だ。
  昔の電気製品に比べると最近のものは寿命が短くなっていると感じる。食器乾燥機は乾燥能力が落ちているし、テレビ(パソコン)は時々病気になり、ステレオはテープデッキが壊れ、リモコンが効かなくなり、CDデッキもリモコンが壊れている。
 昔のものは長持ちしたのに何で最近のものは早死にするのか、もしかしたら家電業界の陰謀ではないか?5、6年で買い換えてもらおうとの企みではないか?と疑う。

 丈夫で長持ちは消費低迷に繋がるかもしれないが、最も有効的なエコだと私は思う。大量生産大量消費は地球の脛齧りだとも思う。無駄な買い物はしないという消費形態で、それでもなお、生活に潤いがあるという社会を築くことはできないだろうか。
          

 記:2009.8.14 島乃ガジ丸