通貨の価値は金本位制によっているらしい。金本位制って何だ?・・・難しいので、私もちゃんと理解しているわけでは無い。で、広辞苑、
きんほんいせい(金本位制)
「定重量の金とが金兌換・自由輸出入を通じて等位関係で結びつけられている制度。」とのこと。この説明も難しいが、金1グラムに対して、それぞれの通貨がいくら支払うかということだと理解する。金は質に変化が無く、価値が安定しているからであろう。
食料はその価値が変動するので、そういう意味では金本位制の代わりにはならないが、しかし。国の政策としては「食の安全、食の安定供給」を本位(=基本とする標準。中心になるものby広辞苑)としてもいいのではないかと思う。
金本位制の金は金銀銅の金(きん)であるが、食本位制で私が対照としているのはその金では無く、円やドルといったお金(かね)の方。食い物が余るほどあると、余った分は腐らせてしまうだけなので、その意味では食い物よりもお金の方がいい。お金は腐ることは無い。しかし、食い物が無ければ、お金がいくらあっても生きていけない。
価値の基本となるものは物である。食い物だけで無く、着る物や住む家なども含めた生活のために必要な物。例えば、魚や服には米いくら分といった価値がつけられる。魚や服を買うのにいちいち米を持ち歩く、あるいは逆に、米を買うのにいちいち魚や服を持ち歩くのは面倒なので、便宜的にそれらの物はお金に替えられる。
便宜的に、お金によって米や魚や服はその価値の数値が示される。しかし、その数値はあくまでも「実態のある物」そのものの価値である。つまり、100円分の米は100円の価値ということでは無く、基本的には100円分の魚や服と替えられますよという価値である。お金は、物があるからこそ成り立つ存在である。
まあ、基本的にはそうだと私は思うのだが、世の中はそうでは無い。人間の欲望もお金に替えることができるので、そこにさまざまなシステムが作られる。
食うだけでは人間は生きてはいけない。人間には子孫を残したいという大欲がある。子孫を残すためにはパートナーを得なければならない。パートナーを得るためにはお金が大きな力となる。お金で身を飾り、相手の心を惹きつけることができる。お金はまた、生きていけるという安心感を与える。お金がたくさんあれば贅沢ができ、楽に生きることができる。それは相手にとって大きな魅力となる。お金こそが幸せの力となる。
よって、お金そのものに大きな価値が与えられ、お金でお金を買うとか、お金でお金を生み出すというカラクリもできる。「お金本位制」の社会だ。
幸い、私は既に子孫を残したいという大欲が薄れ、独り者で、養う家族もなく、お金をさほど必要としない。体を摺り寄せてくるお姉ちゃんのいる飲み屋にも、今はほとんど興味が無い。上等の家や車を持とうなんて気もさらさら無い。
というわけで私には、遊ぶお金が無いなんていう不安は無い。ただ、少々貧乏なので、食うお金も無くなるという不安はある。なので、国の政策としてだけでなく、私自身のこれからの生活設計でも「食の安定供給」を本位にしなければならない。
記:2009.8.14 島乃ガジ丸