「海老を得て鯛を失う」、略せずに書くと「海老を得んがために鯛を失う」となる。小さなもの(価値の低いもの)を得ようとしたばかりに、大きなもの(価値の高いもの)を失ってしまったという故事による戒めの言葉。広辞苑には載っていない。
海老で鯛を釣った男が、釣ったばかりの、まだ生きている鯛を手に渚を歩いていると、潮溜まりで海老を見つけた。欲を出し、その海老も捕まえようとしたら、海老は潮溜まりから飛び跳ねて、海へ逃げようとした。慌てた男は、鯛を握っていた手で海老を掴んだ。その時、思わず鯛を放してしまった。鯛は元気よく海を泳いでいった。
という故事。時と場所は、「むかし、むかし、あるところで」ということで不明。
民主党は、幹事長続投で「海老を得て鯛を失う」にならないだろうかと思う。辞めた朝青龍は逆に、「海老を失い鯛を得る」ことになるかもしれない。
倭国には「木を見て森を見ず」という諺がある。これは広辞苑にも載っている。「細かい点に注意し過ぎて大きく全体をつかまない」ということ。沖縄には「キラマー見ーシガ、マチゲー見ーラン」という諺がある。和語にすると「遠く海に浮かぶ慶良間諸島は見えるが、自分の睫毛は見えない」ということになる。つまり、「遠くのことばかり慮って、身近なことに思いが及ばない」こと、またはそういう人を戒める諺である。
それぞれそういう諺があるということは、倭人には「木を見て森を見ず」の人が多くいて、ウチナーンチュには「キラマー見ーシガ、マチゲー見ーラン」の人が多くいるということなのかもしれない。確かに、ウチナーンチュはボーっとしている人が多い。
私は正当なウチナーンチュで、子供の頃からよくボーっとしていた。で、家族親戚からは「トゥルバヤー」と呼ばれていた。トゥルバヤーとはぼんやりした人という意。
大学生の頃、宮崎出身の友人たちからは「ぺーしちょる」とよく言われた。「ぺーしちょる」もぼんやりする意とのこと。その頃、香川県出身の友人と二人で井の頭公園のベンチに座り、池を眺めていたら、しばらくしてその友人が「あんた、よくそんなボーっとしてられるね。」と呆れ顔で言われたこともある。
そんな私だが今は、これまで生きてきた時間より、この先残された時間が半分以下となってしまった今は、そんなにボーっとしてはいられない。何しろ、やりたいことが山のようにある。ボーっとしている暇は無いのだ。・・・が、
「三つ子の魂百まで」という諺がある。「幼い時の性質は老年まで変わらない。」(広辞苑)のこと。ボーっとしている暇は無く、ボーっとしているつもりの無い私だが、無意識にボーっとしているらしく、うっかりミスが日常に多い。
先週、金曜日の職場に水筒を忘れた。水筒は火曜日からの職場で必需品なので、月曜日に取りに行った。行ったついでにHPの修正をちょっとやった。HPのデータは全てUSBメモリにある。そのUSBメモリを使って作業を行い、作業を終え、忘れた水筒を忘れずに持ち帰った。家に帰ってから気付いた。今度は、これが無ければHPの記事書きができないというとても大事なUSBメモリを忘れていた。海老を得て鯛を失っていた。
記:2010.2.12 島乃ガジ丸