私の父は民政府(米国民政府:詳細は後述)に勤めていた。たまに、基地の中へ連れて行ってくれた。行き交うアメリカ人たちと「ハーイ」などと挨拶をしながら、おそらく「君の息子か?」と訊かれたり、「そうだ、今日は休みなので連れてきた。」などと言葉を交わしたのであろう。私の基地での目的はレストラン。アメリカ人が食うハンバーガーやホットドッグなどを父は食わしてくれた。美味しかった。満足だった。
アメリカ人たちは皆優しかった。父はアメリカ人の同僚を家に招待することもあった。彼らもまた優しかった。アメリカ人はウチナーンチュと何ら変わらない人間であった。一人一人個人として付き合えば彼らとは友達になれるのであった。しかし、米軍という集団になると彼らは敵になる。私は争いごとを好まぬ軟弱人間なので、ウチナーンチュの人権を守るために基地撤去を訴える人々の運動に参加したことは無い。無いが、米軍と基地が原因で起きる理不尽な事件については大いに憤慨する。個人のアメリカ人は友人として、ずっと沖縄にいて欲しいと思うのだが、集団としての基地は、やはり要らないと思う。
米国民政府
琉球列島米国民政府(United States Civil Administration of the Ryukyu Islands)との正式名称があり、ウチナーンチュは「民政府」とか「ユースカー(USCAR)」とか言っていた。Civilはシビリアンコントロールのシビル、「(軍のでは無く)民間の」という意味、Administrationは「統治、行政」とかいった意味。で、民政府となる。
沖縄は、終戦からしばらくは軍の占領下にあり、軍政府に統治されていた。長期の統治を考慮して、原住民であるウチナーンチュともある程度うまくやらなければならないと判断して、1950年から民政府となる。民といってもウチナーンチュは関係ない。アメリカの民であって、それも建前だけ。全ては軍の機能の円滑な運用が優先された。
民政府の最高権力者は高等弁務官という。広辞苑には「植民地・占領地に派遣された最高施政官。」とある。確認はしていないが、歴代の高等弁務官は皆、4軍司令官なども兼務する軍人であったと思う。彼、及び民政府には強大な権力が与えられ、政治でも司法でも社会でもウチナーンチュは民政府と米軍に虐げられたのであった。
復帰とともに民政府は消える。ようやくウチナーンチュによるウチナーンチュの沖縄が始まる。・・・はずであったが、日本国及び米国政府の策略により基地は残された。今でも当時ほどでは無いが軍の名の下に不平等が続いている。
民政府はウチナーンチュも多く採用した。採用されると、それは政府の役人であり、一般人に比べると偉いのであった。給料も高かった。憧れの職場であったらしい。
記:ガジ丸 2005.7.20 →沖縄の生活目次
参考文献
『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行