ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

別れて、そして出会う

2011年09月02日 | 通信-その他・雑感

 去年5月、部屋にシロアリが発生し、畳、床板、床下の木材が大被害を受けた。リフォームしてもらったが、シロアリの巣、あるいは卵が残っていたようで今年もまた、5月の終わりにシロアリが発生した。1万円以上分のシロアリ殺虫剤を床下に使用して、取りあえずの駆除はしたが、シロアリは床下だけでは無かった。壁を食い、天井を食っていた。またもシロアリ殺虫剤を買い、目に入る戸棚などの駆除はしたが、むろん、シロアリはまだまだ多くいる。敵の本隊はきっと天井にいる。駆除は困難と諦める。
 で、引っ越すことにした。お盆後アパート探しをする。当初、今と同じ家賃3万円の安アパートでも敷金礼金など含め引っ越し費用は十数万必要だ、それだけの金を使うと、今でさえ畑の芋を頼りにしている日々の暮らしがさらに貧しくなる。金も無いし、しばらく実家で暮らそうかと迷っていたが、有難いことに、最近のアパートは敷金礼金無しというのも多くある。それなら大丈夫、ということで、アパート探しを続ける。

 先週金曜日、2件目の不動産屋を訪ね、2件目の物件を見せてもらった。即決した。家賃3万5千円前後、2階の角部屋、フローリング、ワンルームなどという私の希望にかなったからということと、敷金礼金無し、仲介手数料無し、最初の一か月分の家賃サービスということだったので即決。さらに、実家へも畑へも交通の便が良い、宜野湾市立図書館が徒歩圏内にある、周りに緑が多いなどというおまけの好条件もあった。
  10畳のワンルーム、オッサン一人生活するには十分の空間、その程度なら掃除も30分で済む。新生活が始まったら毎日掃除して、毎日清々しい気分で過ごしたいと思っている。角部屋なので二か所の窓を開ければ風も通るだろう。よって、クーラー付きだが、クーラーを使わない生活もできるだろう。昨日から引っ越し作業を始めていて、新生活は明日か明後日には開始できる予定だ。楽しい生活になりそうな予感がする。
          

 1993年12月に、実家から首里石嶺のアパートに越した。19年近く住んでいたことになる。小学校一年から高校一年までの約10年、今と場所は一緒だが建物は違う実家で暮らした。高校二年から大学を卒業するまではあちこちで一人暮らし、沖縄に帰ったのは1982年3月、それから今のアパートに越すまでの約11年間は現在の実家で両親と暮らしていた。ということで、私が私の人生で最も長く暮した家は2011年8月31日まで住んでいた、シロアリに食われている首里石嶺のアパートということになる。
  旅好きの私はたぶん放浪癖もあり、同じ場所に住むことを好まない性格だと思われる。そんな私が19年近くも同じ家に住んだ。コンクリートが剥がれ、カビが沁みついているボロアパートに何故それほど永く住んでいたかというと、住み心地が良かったからだ。畑付きだし、周りに緑が多いし、静かだし、近所は穏やかな人が多いし。

 人生で最も永く住んでいた家を出る。住み慣れた家を出る。残念な気分も多少あるが、しかし、これ以上シロアリとの同居は無理。最近、シロアリに体を齧られている夢を何度か見て、夜中、脂汗かきながら目覚めたことがある。それはもう、精神的にも肉体的にも健康に悪い。残り少ない人生、楽しくない時間はなるべく避けたい。
 住み慣れた町を出るのは淋しいが、新しい出会いに期待している。
          

 記:2011.9.2 島乃ガジ丸


凛として歌う

2011年09月02日 | 沖縄03音楽芸能・美術工芸・文学

 ヤマトゥンチュ(倭人)でありながら、東京で琉球民謡の唄三線の先生をしているというM女史から2曲の琉球民謡が送られてきた。作品名は『貫花節』と『収納奉行』で、演者はいずれも船越キヨ。船越キヨは戦前、戦中、戦後の琉球民謡界では糸数カメと共に女性ウタシャ(唄者)の超有名人。琉球民謡レコード歌手の草分け的存在でもある。
 大正2年に生まれ、平成4年に数え80歳で他界した。グソー(後生)の人となって早や十九年になる。「超」が付くほどの有名人とは知らなかったが、私にとっては親戚のおばさんでもあったので、民謡界では名の知れた人というのは知っていた。ただ、私が高校生になる頃にはもう第一線から退いていたようで、有名な民謡歌手のその活躍ぶりはほとんど知らない。親戚のグスージ(御祝事)の際にはたびたびその唄を披露したらしいが、私は覚えていない。今から思えば、その唄をちゃんと聴いとけば良かったと残念に思う。「船越キヨさんの歌はパワフルでダイナミックでとても好きです」とはM女史の評、「最近の民謡歌手の技巧的なうたはあまり好きではありません」とも付け加えていた。

 私は、それが船越キヨの歌であると認識して聴いたのは今回が初めてで、「なるほど、これが名人というものか」と思った。「最近の民謡歌手の技巧的なうた」というM女史の言葉にも合点がいった。背筋の真っ直ぐな凛とした唄だと感じた。
  船越キヨが三線の名手であることは私も若い頃に聞かされ知っていた。しかし、M女史から送られた2曲を聴いて「三線の名手」の技に私は気付かなかった。船越キヨの歌声に感動して、そればかりに傾聴したいたからかもしれない。あるいは、船越キヨの三線の音が、空気がそこにあるが如く自然に存在していたからかもしれない。なんて、カッコいいことを言っているが、実は私は、三線が名人であるかどうかを判断できるほど三線の技に精通しているわけでは無い。素人耳にそう聴こえたということである。

 船越キヨの唄に感動してから3週間ほども過ぎたある日、船越キヨの娘K姉さんに会う機会を得た。その時に、「うちの母ちゃんは凄い人だったんだよ」のエピソードをいくつか聞かせて貰った。私にとっては親戚のおばさんでもあったので、私人としての船越キヨについては少し知っている。躾の厳しい人であったと記憶している。子供の私にとっては怖いおばさんという印象であった。しかし、その厳しさは我が身に対してと芸事に関してはなおいっそう強くあって、それが「凄い人だったんだよ」の源になったのであろう。
 以下は、K姉が語ってくれたエピソードの中からの一つ、二つ。

 私(K姉のこと)は子供の頃から母ちゃんに言われ琉球舞踊をやっていたでしょ、それで、高校の時に新人賞を貰って、ある料亭のの踊り手に応募して受かったの。踊り手は5人選ばれたんだけど、私が船越キヨの娘であることを知ると、料亭の人はその日から私一人だけ高級車で送り迎えをするようになり、たびたびお土産もくれるようになったの。それは良かったんだけど、他の4人から嫉妬されて大変だったさぁ。
 母ちゃんの告別式の時、私たちもびっくりしたんだけどね、当時の県知事、那覇市長をはじめ、各政党の偉い人達、財界の人達、マスコミ関係の著名な人達がたくさん焼香に来てくれたの。告別式会場の関係者も慌ててさ、大きな看板を出したりしてたさぁ。
      

 記:2011.8.20 島乃ガジ丸 →沖縄の生活目次