あの世の沙汰もお金
私が敬愛する詩人、山之口獏の作品に『告別式』という題の詩がある。「ある日、私は死んでしまう。あの世で小さい頃に亡くなった息子に会う。息子はむくれている。何を怒っているのだと訊く。」といった前半の概要で、以下は後半。
お盆になっても家からの
ごちそうがなかったとすねているのだ
ぼくはぼくのこの長男の
頭をなでてやったのだが
仏になったものまでも
金のかかることをほしがるのかとおもうと
地球の上で生きるのとおなじみたいで
あの世も
この世もないみたいなのだ
私が敬愛する唄歌い、高田渡がこれに曲をつけて歌っている。題は同じだが、歌詞は少し変えている。あの世で渡は息子では無く、親父に会う。あの世に行って息子に会うよりも親父に会う人がずっと多かろう、死んだ親父は普通だが、死んだ息子は可哀そうだ。
沖縄ではお盆のウークイ(送り)の時、ウチカビを燃やす風習がある。ウチカビとは打ち紙と書き、銭型を刻印した紙のことでお金に見立てたもの。あの世へ帰って行くご先祖様たちが、あの世でお金に困らないようにと持たせる意味合いがある。ウチカビは供えるのでは無く、燃やす。燃やした煙があの世へ届くらしい。
山之口獏も貧乏だったので「あの世もこの世もないみたいなのだ」と嘆くが、私もまた貧乏人なので、ウチカビを燃やしながら「あの世に行ってまでもお金が必要なのか」と溜息が出る。私には子供がいないのでお盆になっても御馳走もなければウチカビも無い。私のような者は、あの世でも働いて金を稼がなければならないのだろうか。
記:2011.9.16 島乃ガジ丸 →沖縄の生活目次