私は大したことではないと思っていたが、世間(沖縄の巷)では大きなニュースになっているみたいなのでちょっと触れる。大阪府警の「支那人、土人」発言について。
土人については、私は何の違和感もない。土着民という意味であると捉えている。しかしながら、支那人についてはモノ申したい。それが中国人のことを卑しめて呼ぶ語であるとしたら、公職にある者が差別用語を使うことに違和感がある。そして、支那人という呼び名が卑しめることなく中国人を指していたとしても違和感は大いにある。
沖縄人は日本の南端の島々に古くから住む土着民である。中国からの渡来民では無い。倭人の方がむしろ、中国や朝鮮からの渡来人が多く、DNA鑑定をすればおそらく、中国人に近いのは沖縄人ではなく倭人の方であろう。中国人、朝鮮人、倭人、沖縄人の代表的顔を並べてみれば、一重瞼の薄っぺらな顔の中国人、朝鮮人、倭人に比べ、沖縄人は眉毛太く、掘りの深い顔立ち、いかにも縄文人といった顔。琉球列島(奄美から八重山まで)が日本国であるならば、大昔からそこに住んでいる沖縄人は日本原住民である。
それはさておき、いかにも沖縄人といった特徴ある顔をウチナーヂラー(沖縄面)と呼ぶが、見た目だけでなく性質にも、いかにも沖縄人といったものがあるだろうと、ウチナーンチュの特徴的な、あるいは、目立つ性質、または、行動を考えてみた。
若い頃の5年間、東京暮らしをしていた時に「何か違うなぁ」と私が感じたことに「東京の人はきちっとしているなぁ」ということがあった。エレベーターでは常に右側が空いているし、電車を待つ列にはちゃんと並ぶ。今では沖縄でもだいたいそうなっているが、私が若い頃はエレベーターはゴチャゴチャ、バス停で並ぶなんてこともなかった。
東京で車を運転することが何度かあった。その時も「東京の人はきちっとしている」という感想を持った。沖縄に帰省して車を運転すると、私はイライラすることが多かった。交差点で信号が青になっても先頭の車がモタモタしている。方向指示器を点けずに右折左折する車が多い。東京ではほとんど経験しなかったことだ。
東京だと「青だぞ!何モタモタしていやがる!」とけたたましくクラクションが鳴るであろうが、沖縄だと数秒は待ってから「青ですよ。」と軽く鳴らすだけ。ウチナーンチュにはボーっとしている人が多いので「お互い様」といった気分なのだと思う。
私は優しい(自分で言う)ので、脇道から大通りへ出る際は歩道の手前で一旦停車し、左右の車が途切れて大通りへ出るチャンスであったとしても、歩行者がいれば彼を優先して「どうぞ」と手で合図し渡り切るまで待つ。ウチナーンチュの年寄りは「ありがとう」という表情を見せ、小走りする。「ゆっくりでいいのに」と私は思う。
これが倭人の場合はそうはいかない。彼は「法律上俺が優先である」とばかりに「ありがとう」という表情はまったく無く、ゆっくりと渡って行く。私はしかし、「これが法律だ」といった倭人の感性より、ウチナーンチュの緩い感性の方が好き。ちなみに、ウチナーンチュでも女子高生は別。彼女たちは複数でいると最も威張った歩行者だ。
沖縄では決まりごとより優先するものがある。それは「思いやり」。カッコよく言えばそうなるが、実は、「どうでもいいさぁ、楽しければいいさぁ」といった気分かもしれない。いや、それも私が若かった頃はそうだったかもしれないが、今はどうも・・・。
記:2016.10.28 島乃ガジ丸
急がなければならない種播きがいくつもあって、先週は休日無く1日平均7時間労働であった。しゃがんでの除草と土ほぐし、「おそらくそうなるだろう」と思っていた通り、腰が痛みだした。今週もまた、同じ作業を続け、ついに、腰痛が復活した。
ヨー、ヨー、ヨー、ヨー ヨー、ツー、フッ、カーツッ
イテッ、イテッ、イテテーヨ イテッ、イテッ、イテテーヨ
立って痛いし、歩いて痛い くしゃみしたなら激しく痛い
このままずっと寝たきりか? まだまだ気持ちは青春なのに
なんて、ラップ調の歌も思い付いた。老人バンドが歌うと良いかも。
今月(10月)初め頃には右手中指と薬指の筋が痺れて、数時間その2本の指が動かせないという症状があった。台風18号の強風によって倒されたウージ(サトウキビ)20数本の内、倒され方の酷い12本を刈り取ってウージ汁を作った。その際、ウージの堅い節(竹の節に似る)は取り除いていた。取り除くのには剪定鋏を使う。ウージは堅い、それを剪定鋏で切断する。右手を全力で握ること100回以上、これが祟った。その頃はまた、歯茎にも不具合が生じていた。老いは間違いなくやってきている。
老いる私には、病も当然やってくるであろう。実は、先週水曜日(19日)午後6時15分のこと。恋もしていないのに胸が苦しくなった。10月半ば過ぎとは思えぬ糞暑い太陽の下で「きついな」と思いつつ4時半まで農作業を頑張って、家に帰って黒砂糖作りに挑戦しつつ、晩飯の準備もしつつ、デスクの前に腰掛け、パソコンを開いてガジ丸記事書きに取りかかろうとした、その時突然、心臓の右下辺りが痛くなった。
これまでに経験したことのない痛み、「これが心臓発作か?心筋梗塞ということか?」と思いつつ、助けを求めるため電話に手を伸ばす・・・ということはせず、「こんな時にはこれが良いに違いない」と私はベッドに仰向けに寝て、腹式深呼吸を始めた。
痛みはなかなか治まらなかった。運の悪いことに黒砂糖作りの鍋を火にかけっ放し。今立ち上がると心臓に大きな負担になるのではないかと心配しつつ、ゆっくり起き上がってコンロの火を消し、ベッドに戻って再び仰向けに寝て、「こんな時にはこっちが良いかもしれない」と、次は瞑想をした。6時40分、約15分間の瞑想で痛みはほぼ引いた。そして、罰当り者の私はその後、酒を飲み煙草を吸った。いいのだ、楽しければ。
「深酒はしないでね。」
「いいじゃないか、たまには。酔いたい時もあるんだよ人生は。」
「煙草は止めてよ。」
「いいじゃないか、一日10本も吸っていないぜ。」
「少しであっても煙草は健康に悪いのよ。」
「煩せぇなー、俺の命だ、俺の好きにさせろ。」
「あなたのことを心配して言ってるんじゃないの!」
「じゃあ、仕事辞める。仕事が俺の最大のストレスとなっている。」
「何言ってんの!金を稼ぐあなただからこそ心配しているのよ!」
などといった会話がどこかでなされていないだろうか。頑張れ!夫ども。
記:2016.10.28 島乃ガジ丸
静岡出身の義兄は、姉と結婚(40年程前になるか)後、たびたび沖縄を訪れている。その義兄がまだ沖縄に慣れていない頃、「だからよー」、「何でかねー」というセリフがウチナーンチュの口(特に従姉)からよく聞かれることから、
例えば、H子(その従姉)の店にコーヒーを飲みに行ったんだけど店が開いていない。閉店日でも無いし、開店時間も過ぎている。少し待っていたらH子がやってきた。
「H子、遅いよ、もう開店時間を過ぎているよ」と文句言ったとする。すると彼女は、
「だからよー」で済ませる。
例えばもう1つ、H子にコーヒー頼んで、それがぬるかった時、
「H子、このコーヒーぬるいよ」と文句言ったとする。すると彼女は、
「そうねー?何でかねー」で済ませる。
「だからよー、何でかねー」はウチナーンチュの特徴の1つだ。責任転嫁だ。
とのこと。「責任転嫁」と言う義兄の意見に私は大いに賛成する。自分が遅刻しようと思って遅刻しているのではない、自分がぬるいコーヒーを出したいと思っているのではない。何か目に見えぬ力がそうさせていると言っているみたいなもの。
先週先々週とケンカの際に使われる言葉『タッピラカス』、『タックルス』について書いたが、その中では他に「死ナスンドー」、「クルスンドー」などのケンカ常套句を紹介している。「死ナス」は「殺す」で、「クルスン」は「殴る」の意である。
同じく、先週先々週の記事『タッピラカス』、『タックルス』の中で紹介しているが、ケンカ言葉は「死ナサリンドー」、「クルサりンドー」と受動態で使われることも多い。「死ナサリンドー」は「殺されるぞ」で、「クルサりンドー」は「殴られるぞ」という意になる。誰が?と言うと「お前が」、誰に?と言うと「俺に」ということだが、もしかしたらこれも、ウチナーンチュの責任転嫁で、誰に?は「俺に」ではなく、「何か目に見えぬ力によって」ということかもしれない。現実には「俺」が殴るのだが、それは神の思し召しであり、「天に代わって成敗してくれる」というつもりかもしれない。
「だからよー」は時に「だっからよー」とも発音される。「だっからよー」には「ホントに、実に、誠に」といったニュアンスが含まれる。いずれにせよ、「何でかねー」も含めて「誰が悪いのか知らないけど」といったスットボケタ言いようとなる。
音程で表すと「だからよー」ミミファレー、「何でかねー」はドドミドレー、「だっからよー」はミ、ミファドーみたいな感じ。これはそのまま歌になる。
何でかねー だからよー
何でかねー だっからよー
遅刻したって? 誰が?私が? ラララララシド シシラソソラシ
客が困るよ 私のせいなの? ファファファファファソラ ソソソソソソラシ
何でかねー だからよー
何でかねー だっからよー
みたいな感じ。いかにも南国のノーテンキな歌い方をするとピッタリはまる。
ウチナーンチュと結婚したヤマトゥユミ(大和嫁)、その夫婦のある日の会話。
「あー、ちゃんと洗濯物取り込んでくれたんだね、ありが・・・あれ?、でも、これ、全部濡れているよ。」
「だからよー。」
「だからよーってアンタ、雨が降りそうだから洗濯物取り込んでおいてねって2時間も前に電話したじゃない。「了解」ってアンタ言ってたじゃない、何でよ!」
「何でかねー。」
「何でかねーって!・・・殺すぞテメェ。」
こういった場合の「殺すぞ」のように和語はたいてい能動的である。「殺されるぞテメェ」とか「殴られるぞテメェ」とは、和語ではあまり言わない。倭人は概ね責任転嫁などしない。ウチナーンチュは自らの言動になるべく責任を持ちたくない性質とも言えるが、私は、言動を神に委ねているようなウチナーンチュ気分はそう悪くないと思う。
記:2016.10.21 ガジ丸 →沖縄の生活目次