ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

瓦版001 ミス・ボージャングル

2007年03月30日 | ユクレー瓦版

 有名なダンスの達人ミスターボージャングルは、だぶだぶのズボンを穿いていたとも伝えられている。島の娘ユーナはダンスが上手いというわけではなく、いつもだぶだぶのズボンを穿いているために、ミス・ボージャングルとあだ名され、略してミスボー、あるいはバギー(ーにアクセントを付けてバギイという風に読むとウチナーグチらしくなる)って呼ばれたりしている。
  ズボンだけでなく、彼女は靴もぶかぶかのを履いている。ズボンも靴も彼女の父親の物だ。父親は2年前のある日、突然島から消えた。島の者たちの多くは、「娘一人を残して失踪するわけが無い。おそらく酔っ払って、海に落ちて死んでしまったのだろう」と考えていたが、ユーナは、「父ちゃんは生きている。何かの事情で島を離れたのだ。いつかきっと帰ってくる」と信じていた。父親の物を身に付けることで、その願いが叶うような気がしていたのだった。

 ユーナがまだ1才を過ぎたばかりの頃に、ユーナの父親は娘と二人で島にやってきて、そのまま島に住みついた。ユーナの母親は彼女が生まれてすぐに病で亡くなっていた。父一人子一人の生活が10年続き、そして、ユーナが13才の歳に突然、父がいなくなったのだ。とても仲の良い親子だった。ユーナにとっては何よりも誰よりも大切な、深く愛する父だった。ゆえに、彼女の悲しみは尋常のものでは無く、島の人たちは彼女が自殺するのではないかと心配するほどであった。
 そんな彼女を支えたのはシバイサー(サーにアクセント)博士、ガジ丸、チシャといった島の仲間たち。特にシバイサー博士の「お前の父親は、世界の平和のために働いている秘密結社の一員で、今、大変重要な任務にあり、それで連絡もできないのだ。でも、その任務が終われば、いずれ帰ってくるさ。」という話によって、ユーナはその深い悲しみから少しは救われたのであった。
     

 仲間の助けで立ち直ったユーナではあったが、しかし、元々気の強い性格で、喧嘩も強い。だぶだぶズボンのウエストからはパンツ丸見えなのだが、見られても全然平気。ただし、面白がって覗こうなどとすると、そのぶかぶか靴で蹴り飛ばされる。モク魔王の仲間のいたずら野郎どもはしょっちゅう彼女に蹴られている。ために、彼らは彼女のことをイカリボーと呼んでいる。
 そして、今日もイカリボーはだぶだぶズボンにぶかぶか靴で、元気に島を歩いている。

 語り:ゑんちゅ小僧 2004.11.19


病を運ぶ夜の鳥

2007年03月30日 | 通信-科学・空想

 私は、幽霊、マジムンの類を見たことがない。で、それらの存在を信じてはいない。であるが、いろいろ不思議体験をしているので、そういったモノたちが、ひょっとしたらいるかもしれないとは思っている。誰か科学的に証明してくれないだろうか、と思う。

 3月14日、出勤して1時間ほど経った頃、急に肩が重くなった。まるで、霊が取り付いてでもいるかのようであった。見えないので、霊であるとはっきりは言えないのだが、普通には無い肩の重さであった。その重さは、夕方の4時まで続いた。
 先週は、部屋の中で正体不明のモノたちが走り回って、それが煩くて、ほとんど寝られない日が一日あった。部屋のワサワサは、その後も少し続いている。

 私は生来、楽天家なので、夢はたいてい楽しい夢を見る。夢の中で私はモテル男になっている。私に惚れる女は、長澤まさみとか黒木瞳など、イイ女ばかりである。また、世界平和のために戦っている男になっていたり、仙人になって空を飛んでいたりする。だから私は、夜寝るのが大好きである。良い夢を見て、朝はいつも気持ち良く目覚める。
 ところが最近、訳のわからない夢を続けて見ている。肩に霊が取り付いたと思われるその翌日の未明には、喉に痰が詰まって息ができない夢で、うなされて、汗をかいて、目を覚ましてしまった。翌日の未明には、自分が排泄したばかりの、でっかい雲子の塊を食べて、それが喉に詰まる夢であった。大丈夫かオジサン、と思ってしまう。

  じつは、それらの前兆となるような不思議な体験を2月にしている。
 2月11日、飲み会するからと友人Hに呼ばれ、彼の家へ向かう。私の家からは徒歩40分の距離。散歩を趣味としている私は、当然歩いて行く。
 彼の家から1キロメートルほどの間は、細くて、ずっと下り坂が続く道。薄暮の中、星がチラチラ出だした頃、その坂の途中、正面斜め上方の空に大きな薄黄色の光が見えた。それは、飛行機では無いと断定できるほどに大きい灯であった。
 何の灯だろうと目を凝らしていると突然、大きな鳥が頭上を飛んだ。沖縄にはオオコウモリが生息する。私の家の近くにもいて、何度も目撃している。この辺りも樹木が生い茂っているので、オオコウモリはきっといる。だけど、それはオオコウモリとは形が違う。形は鳥である。サシバほどの大きさの鳥だが、サシバの形でも無い。
 鳥は、私の立っているすぐ傍の木に止まったが、暗い上、枝葉に遮られていて、その姿を確認することができない。鳥はしばらくして飛び去っていった。

 Hの家で飲んで、11時過ぎには帰る。寝る前、喉に痛みを感じた。翌朝目覚めたら、痛みは酷くなっていた。風邪?かと思ったが、風邪の時の痛みとはどこか違う。朝飯食っている時に食物が喉を通り辛いのを感じる。飲み込む時に鈍い痛みも感じる。「あっ、しまった!もしかしてポリープだ。ヘタしたら咽喉癌だ。どーしよ。」と不安になる。
 喉の痛みは左側にあり、喉が痛いだけでは無い。左肩や左側頭部から頭頂部にかけても少し痛みがある。「何じゃい!急に。」と思いつつ、「あっ、もしかしたら」と思う。昨夜の正体不明の鳥は、病を運ぶ鳥では無かったか。夜、飛んできて、病を人にうつす鳥がいるなんて、どこかの神話かなんかになかっただろうか。
 喉の痛みは徐々に薄れていき、約36時間の禁煙後にすっかり回復したが、その後の、痰が詰まる夢、雲子が詰まる夢は、その影響ではなかったかと思われる。 
          

 記:2007.3.30 ガジ丸


なまじかけるな薄情け

2007年03月23日 | 通信-社会・生活

 相当古い歌で、そのタイトルも歌手名も覚えていないが、・・・今調べた。インターネットはホントに便利。タイトルは『裏町人生』、歌手は上原敏。『裏町人生』は、そんなタイトルだったかなあと微かな記憶があるが、上原敏(ビンと読む)は全く記憶に無い。『流転』という歌も歌った人らしい。『流転』ももちろん、古い歌であるが、その歌詞を見たら、メロディーが浮かんできた。私も古いなあ。
 さて、『流転』では無く『裏町人生』、その歌詞の中に「なまじかけるな薄情け」というフレーズがある。他の部分は全く覚えていないが、そこだけは強く私の記憶に残っている。「なまじかけるな薄情け」を、「上っ面の愛情でちょっかい出すな」、「面倒見るなら最後まで見ろ」などという意味で私は捉えている。念のため、広辞苑で調べる。
 なまじは「深く心を用いないさま。中途半端。」で、薄情けは「かりそめのはかない情愛。」ということ。私の捉えた意味と、まあ、だいたい同じ様なことである。「毒を食らわば皿まで」とか、「キスをするならディープキス」ということ?である。あるいは、愛と対極にある憎しみで言えば、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」とか、「どうせ殴るなら1発より100発」などがあると(たぶん)思われる。

  去年の暮れ辺りから、アパートの周辺でネコの鳴き声が煩くなった。以前から発情期の声は時々聞こえていたが、それとは違う甘えた声が多くなった。セックスでは無い愛情を求める声、人間に餌を求める声である。高い声のミャオ。
 近所の野良ネコ、私の畑に糞を垂れる憎きネコ共に1階の若い男が餌をやっているようなのである。隣の若い女もたまに餌をやっているようで、1階だけでなく、2階にもネコはたまにやってくる。ネコを見ると蹴っ飛ばしてやりたいと常々思っている私にさえ、甘い声を出す。しかし残念ながら、私は薄情けを、なまじかけることはしない。私の部屋の前でミャオ、ミャオと鳴くネコも、「この男はダメだ」とすぐに諦めてくれる。

 「薄情け」の「薄情」は「はくじょう」とも読む。「義理・人情にうすいこと。愛情の薄いこと。心のつめたいこと。」(広辞苑)ということ。1階の若い男や隣の若い女から見れば、私は薄情者に映るかもしれない。「この寒空に、お腹空かせて、建物の陰で縮こまっているんだ。それを見て、お前は可哀想と思わないのか。」と彼らは言うかもしれない。しかし、それでも断固として私は、野良ネコ共に食物を与える気持ちは無い。少なくとも、「野良」を「飼い」にする覚悟が無い限りは与えない。今のところそんな覚悟は微塵も無い。「薄情者め」との非難は甘んじて受ける覚悟はできている。

 野良ネコに、気紛れに餌を与えて、ちょいと優しい心を持った気分になる。その気分はちょいとした幸福感を与える。そういう気分が私はあまり好きでない。優しくも無いのに優しいなどと自分の心を勘違いしてしまう。勘違いの幸福に騙されてしまう。
          

 記:2007.3.23 ガジ丸


対岸の火事、ダーウィンの悪夢

2007年03月16日 | 通信-音楽・映画

 5年ほど前に退職した元同僚Aさんは、私の住んでいるアパートから徒歩5分ほどの場所に家がある。でも、退職してからはほとんど会っていない。3年ほど前まではバイクに乗っている姿を見かけたり、近くのスーパーでばったり会ったりした。同じ頃、選挙の投票所で偶然会って立ち話をしたのを最後に、最近までずっと、Aさんの姿を見ることは無かった。で、彼のことはすっかり忘れていた。
 先日、3月の初め頃、会社帰りの車の中から約3年ぶりにAさんを見た。彼は、ちょうど交差点を曲がったところの細い道の傍にいた。建物の外階段に座っていた。細い道に入ったところなので、車は停車する直前のような速度、私はすぐに気付いて彼の顔を凝視する。私に気付いてくれたら挨拶しようと思ったが、彼の目は、私の方を見ているような見ていないような、何か、途中の空気を見ているような感じだった。

 それから1週間ほど経った先週の土曜日、夜、模合(モアイ、理由のある飲み会)があり、場所が国際通りに近い場所だったので、ついでに映画を観に行くことにした。家を出てバス停に向かう。バス停の傍に芝地があって、その芝の上にAさんがいた。膝を抱える体育座りをしていた。今度は私も徒歩なので、Aさんの顔を見つめながら近付いていき、声を掛けようとした。Aさんの顔はこっちを向いている。目線もこっちを向いている。でも、その目は私の方を見ているような見ていないような、やはり何か、途中の空気を見ているような感じだった。私のことを覚えていないみたいであった。

 Aさんとは10年間ほど仕事を一緒にしている。炎天下の中、肉体労働で死ぬほどの汗をかき、苦労を共にしている仲間であった。ところが、Aさんと飲みに行った経験は一度も無い。彼は、我々が誘っても一緒に飲みに行くことは無かった。
 後で聞いた話であるが、Aさんは酒飲むと人が変わるとのことであった。いわゆる、酒乱ということである。なので、我々と飲むことを遠慮したみたいである。
 中空を見ているような虚ろな目も、苦労を共にした仲間の顔を忘れるのも、酒の飲み過ぎの影響なのかと、私は国際通りへ向かうバスの中で思った。

 その日観た映画は、大好きな桜坂劇場でやっていた『ダーウィンの悪夢』。映画を観る前に、その紹介チラシの文章をほとんど読まない私は、『ダーウィンの悪夢』を、「地球環境の汚染や変化によって、遺伝子がおかしくなったよ」っていう内容の映画だと思っていた。『ダーウィン』からそう連想したのだが、内容は、大雑把に言えば、先進国がアフリカを食い物にしている、というようなことであった。
  武器や弾薬が入ってこなければ、アフリカの戦争は減る。戦争が少なくなれば、アフリカの飢餓も減る。概ね平和であれば、アフリカの人々も安心して大地を耕せる。子供たちは学校に行き、勉強して、より豊かで平和な国を自らの手で創り上げることができる。武器や弾薬が入ってこなければ、そうなる可能性が高い。少なくとも希望はある。
 しかし、武器や弾薬は入ってくる。先進国の武器商人たちは、自分たちがキャビアやフォアグラを食べたいがためにアフリカの人々が殺し合いをすることを望む。隣人の不幸が我が幸福というわけである。「そうであるか」と私は深い溜息をつく。
 実は、映画を観ての私の感想は、その深い溜息だけであった。スクリーンにはずっと重たい空気が流れていたが、アフリカは遠い場所であり、そこに描かれている悲惨は、あまりにも平和日本の現状とかけ離れていた。なので、『ダーウィンの悪夢』で描かれていることは、私にとっては対岸の火事という気分であった。映画を観る前から観た後まで、私にはAさんのことが此岸の火事となって、心に付きまとっていた。
          

 記:2007.3.16 ガジ丸