ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

奥武島

2010年07月09日 | 沖縄05観光・飲み食い遊び

 奥武島、「おうじま」と読む。前に「奥武山運動公園」を紹介したが、これは「おうのやまうんどうこうえん」と読む。つまり、奥武は「おう」と読む、沖縄では。
  奥武島は沖縄島南部にある小さな島、本島から少し離れていて、さほど長くない橋が架かっている。キャンプや海水浴もできないわけでは無いが、その目的で私は行ったことは無い。ではあるが、奥武島という名前を私は若い頃からよく耳にし、南部をドライブする際に何度か訪ねてもいる。その頃そこにどんな魅力があったのかは不明。トビイカ漁と、トビイカの干物と、新鮮な刺身が安く手に入るということで有名だが、それは私がオジサンという歳になってから知ったこと。近くに磨文仁平和祈念公園があり、キャンプや海水浴に適した新原ビーチがあり、若い頃はその帰りに立ち寄ったと思われる。

 奥武島について、『沖縄大百科事典』に記載がある。要約すると、

 旧玉城村にある架橋島
 沖縄島南部知念半島基部南岸沖にある小島
 面積0.21平方キロメートル、周囲2.33キロメートル
 最高標高14メートルの平坦な島
 東側は珊瑚礁が発達している
 島民の多くは半農半漁
 南東岸に砂浜がある
 世帯数257

  とのこと。前述のトビイカについては、既に紹介していると記憶しているが、どのジャンルの何というタイトルで紹介したか覚えていない。ので、季節がいつだったかも忘れてしまっているが、その季節になると、「奥武島トビイカ漁が始まりました」とニュースになり、数日経つと、トビイカ干しの風景が奥武島で見られる。
 橋を渡ってすぐ左側には魚屋さんが並んでいて、そこで刺身など買うと安い。安い上に魚のあらなどをサービスしてくれる、あらといっても身をたっぷり付けていて、天ぷらにできるし、骨の付いた部分は煮付けや唐揚げなどにして美味しい。
 食べ物のことばかり書いたが、他に特に思い浮かぶのは無い。そうそう、私は見たこと無いが、奥武島ハーリーも有名らしい。ハーリーとはボート競走のようなもの。
     
     

 記:2010.7.8 ガジ丸 →沖縄の生活目次


実家の想い出

2010年07月09日 | 通信-その他・雑感

 6月29日の夜から実家で生活している。1階にダイニング、リビング、仏間、洗面所兼作業場、風呂、トイレがあり、2階に4つの寝室、2つの畳間、書斎、トイレ兼シャワー室等々のある家。もっとも、一つ一つの部屋が狭いので豪邸というわけではない。50坪に満たない敷地に、いっぱいいっぱいに建っている四角い家。
 それだけ部屋数のある家は当然ながら、オジサン一人が住むには広すぎる。風通しのために毎朝部屋部屋の窓を開けているが、それだけでも面倒に感じる。それだけでも面倒なのに、掃除やら部屋の整理やらあり、屋上やベランダの鉢物への水遣りもある。住んでから10日ばかりになるが、1階の各部屋は掃除できたが、2階は、自分が寝るところ以外はまだ手をつけていない。部屋の整理整頓も、台所の一部と自分の部屋がやっと終わったところ。住むとは「人が主」と書くが、私は家の主ではなく、家に使われている。

 実家は、私が小学校二年生の頃から今の場所にあるが、建物は二代目。二代目は私が大学生の頃に建てられている。大学を卒業して、東京から帰って、その新しい家に住み始めた。以来、28年が経っている。この28年のうち16年余はアパート(シロアリが発生して現在修理中の)に住んでいるので、実家で暮らしたのは12年ほどである。
 その12年、私はずっと居心地の悪さを感じていた。自分の部屋から外へ出るには父の部屋の前を通り、そして、母の部屋の前を通らなければならない。何か常に監視されている気分であった。好きな女ができても、部屋に連れ込めないのであった。で、16年ちょっと前、そんな家から出て、一人アパート住まいを始めたのであった。が、しかし、せっかく手に入れた自由ではあったが、女を連れ込んだのは数回しかない。

  そんな話はさておき、実家で暮らしていると思い出すことがいろいろある。
 私は料理をするので台所を使う。で、すぐに台所の掃除、整理整頓を行った。母が死んで2年半になる。台所は母仕様から姉仕様に変わっていた。賞味期限切れの調味料がいくつもあった。母にはあまりなかったことだ。冷蔵庫がごちゃごちゃしている、冷凍庫には食べ残しのものがいくつもある。それらも母にはあまりなかったこと。
 先日、ざるうどんを食おうと台所に立った。母の麺つゆを思い出した。うろ覚えだが、母の作り方を真似て作る。「醤油がちょっと薄かったが、まあ、こんなもんか」という出来栄え。今から考えれば、母の麺つゆは追いガツオ仕立てであった。
  実家の「私のもの」を整理しようと思い、私の部屋と父の書斎にある私の本を出して並べた。写真はずらっと並べた私の(漫画の一部は甥たちのもの)書籍類。父の書斎から出した中には私が小学校の頃に読んだ古い本が数冊あった。懐かしく思った。親が残しておいてくれたようだ。中学の頃のもの、高校の頃のものも多くあった。想い出深い数冊は処分保留とする。母は、お金の使い方に厳しい人であったが、本はよく買ってくれた。
          

 父の書籍には政治関係など硬めの本が多いが、政治関係の本には、現役政治家の本も多くある。管直人著作も2冊あった。「消費税も議論したい」と言っただけで、消費税が選挙の争点になってしまっている缶な音総理だが、私の父はファンだったみたいだ。父は元は保守系支持者であったが、今はどうなんだろう。参院選は誰を応援している?
          

 記:2010.7.9 島乃ガジ丸


弁ヶ岳公園

2010年07月02日 | 沖縄05観光・飲み食い遊び

 私の出身高校は名門(自分で言うのも何だが)首里高校。進学する高校を選ぶにあたって、中学三年の担任には「成績が少し足りない」と言われたのだが、成績が足りないのは素行の悪さもあったので、試験の結果だけなら名門首里高校に合格する十分の自信が私にはあった。で、迷うことは無かった。試験前一週間の猛勉強で、見事合格。

 高一の春、クラスメートともすぐに打ち解け、多くの友人ができた。美少女の出現率は中学の頃よりはるかに高く、何人もの女子に紅顔は恋をしたが、たったの一つも恋は実らなかった。それでも、思い起こせば懐かしき高校時代、最も楽しかった時代でもある。
 高一の春、中学の時にはあまり無かったことを経験した。高校には応援団という団体があり、彼らが新入生に校歌や応援歌を教え、指導するというものであった。「大きな声を出せ!」と怒鳴られながら校歌を歌った。おかげで、小学校や中学校の校歌はほとんど記憶に無いが、高校の校歌は、少なくとも一番だけなら今でも歌える。

 仰げば高し弁ヶ岳 千歳の緑濃き所

  と始まる。で、首里高校の近くに弁ヶ岳という名の岳があるらしいことを知る。「仰げば高し弁ヶ岳」から、弁ヶ岳とは霊山みたいな場所で、仰ぎ見る高貴な場所であろうというイメージを持つ。校歌の頭に出てきて、名前だけは強く記憶に残った弁ヶ岳だが、霊山などに特に興味を持たなかった当時の私は、訪ねたことは一度も無かった。ガジ丸HPで沖縄の植物を紹介するようになってからやっと、弁ヶ岳を訪れることになる。仰ぎ見る高貴な場所であろうというイメージを持ってから三十数年が過ぎていた。

 弁ヶ岳について、『沖縄大百科事典』に記載があった。以下はその抜粋。
 弁ヶ岳
 那覇市首里汀良町にある丘陵
 方言名:ビンヌタキ
 首里の東端にあり西原町と接する
 那覇市の最高所で、標高約166m
 御嶽でもあり、大嶽と小嶽がある。
 いずれも国王の祈願所で、大嶽は久高島への、小嶽は斎場御嶽への遥拝所。

 「仰げば高し」と首里高校校歌にはあったが、標高は首里城より40mほど高いだけ。もしかしたら「仰げば高し」には、私が昔抱いた「仰ぎ見る高貴な場所」というイメージ通りの、精神的な意味も含まれているのかもしれない。
 弁ヶ岳全体が公園となっている。祈願所の他には大きな施設はない。出入口などにベンチやトイレが設置されている。石畳の園路があり、そこが私の散歩コースとなっている。薄暗い中を歩くが、夏は直射日光を避けられるので助かる。
 鳥は多い。ヒヨドリ、シロガシラ、メジロ、ウグイス、キジバト、ズアカアオバト、カラスの鳴き声がよく聞こえる。夏になるとセミの声が騒がしくなる。チョウやトンボ、バッタ、カメムシなども多く見られる。植物は、施設のある場所、周囲、出入口近辺は植林されているが、石畳の周りは、多くが自然林だと思われる。
     
     
     

 記:2010.7.1 ガジ丸 →沖縄の生活目次


終末思想という流行りもの

2010年07月02日 | 通信-社会・生活

 一昔前の自分を覚えているだろうか。十年一昔というので、一昔前の自分とは十年前の自分のこと。十年前、仕事は何をしていたのか、どのような地位にいたのか。結婚していたのか、女房とは上手くいっていたのか。子供はいたのか、父親の役目はちゃんと果たしていたのか。結婚していない人は、恋をしていたのかどうか、などなど。
 十年前は2000年、2000年は20世紀最後の年、・・・としか印象が無い。バブルの頃だったのか、バブルがはじけていたのかも記憶に無い。なにしろ、私の勤める会社はバブルの頃景気が良かったということもなく、常に底辺をウロチョロしていた。
 その前の年、1999年は少々思い入れがある。高校の頃友人たちの間で流行ったノストラダムスの黙示録、それが世界の終わりを予言した年だ。同じクラスのUNなどはその信奉者で、その時に備えて保存食などを買い込んでいたくらいだ。本に書かれていることやテレビで流される情報を鵜呑みにしないタイプの私は、それに懐疑的で、「科学的根拠が無い」、「科学では無く、心が感じることだ」などとUNと討論した覚えがある。1999年、「ほーら見ろ」とUNに言いたかったのだが、会う機会が無かった。

 1999年、世界の終わりが来るなどとはちっとも思っていなかった私は、今の仕事をしていて、地位も今と変わっていない(給料は現在大きく減っている)。今と同じく結婚しておらず、世の亭主どもを悩ませている女房との諍いなどは無い。当然、子供もいないので子育てに頭を悩ますことも無い。最後の恋から3年ばかり過ぎており、その傷は十分に癒えた上、新たな恋がしたいという欲求も薄れていた。つまり、悩みは何も無く、暢気な日々を過ごしていた。暢気な日々は以後11年、ずっと続いている。
  気分的には呑気な11年だが、経済的には長引く不況、特に小泉改革以来の建設業不況によって、私の勤める会社は右肩下がりの業績で、しかも、その坂は急坂、私のような独り者でも生活がアップアップの状態。今の車は買ってから9年になるが、10年後には買い替えが必要になるだろうと、その頃からコツコツ貯めていた貯金を食い潰し、もはや原付バイクを買うほどしか残っていない。その残りも夏までには消えそうな状態。
 それでも私が呑気なのは、畑で芋を作っていれば何とか生きてはいけるだろうと思っているから。「そりゃあ甘いぜ」と言う友人がいて、私自身も確たる自信は無いのだが「なんとかなるさ」と思っている。「それこそ科学的根拠が無い」と、UNがいれば言いそうだが、「科学では無く、心が感じることだ」と、私は言い返すであろう。

 ここ10年あまり、流行の本というものをほとんど読んでいない。流行りで無い植物図鑑、昆虫図鑑はよく読んでいる。それはともかく、流行の本を読んでいないので全く知らなかったのだが、2012年終末説というものがこの頃流行っているらしい。
 過日、入院した父を見舞うために帰省していた弟から、「面白いから読んでみて」と勧められて読んだ本にそのようなことが書かれてあった。そりゃあ確かに地球温暖化などで異常気象があったり、大規模災害があったり、いろんな病気が出現したりしているが、2012年終末なんて、何の科学的根拠もない。それを面白いだなんて、「うっ、いつの間に我が弟はUNみたいになったんだろう」と、私は思ってしまった。世界の終わりが来たならば、終わればいいのだ。生き残りたいなどという欲望は、私には無い。 
          

 記:2010.7.2 島乃ガジ丸