唐松林の中に小屋を建て、晴れた日には畑を耕し雨の日にはセロを弾いて暮したい、そんな郷秋<Gauche>の気ままな独り言。
郷秋<Gauche>の独り言
E-P3の画像流出
今月30日に発表されると云うOLYMPUS(オリンパス)のE-Pシリーズ3機種の内の最上級機、E-P3の写真が流出しMirrorless Rumorsに掲載されていた。
これが本物だとすると(多分本物だろう)、E-P3はE-P2のまったくの正常進化型である。ほとんど唯一の違いは、ストロボが内蔵されるらしいこと。その場所を確保するためにE-P2では左側にあった撮影モード設定のダイヤルが右側、つまりこれまでON/OFFスイッチがあった場所に移され、ON/OFFスイッチが右端の露出補正ボタンの後ろ(撮影者)側に移された。
不鮮明だが裏側(撮影者)側の写真を見るとモニター右側に縦に並んでいるボタンが4つから5つ増えている。ボタンの機能表示の文字が無くなっているのだが、それはどうやらモニターが大きくなったためのようである。3inchよりも大きなモニターを採用しているのか。
正面から見て取れる変更は二つ。E-P2では動画用のマイクロフォンが正面のOLYMPUSのロゴの両端にあったが、これがホットシューの前に移されている。E-P2ではON/OFFスイッチがある辺りの正面に小さな窓が設けられている。これはAF補助照明用の窓だと思われるがどうだろうか。
あと3日が待ちきれない方はMirrorless Rumorsをご覧あれ。
小笠原、父島(その3)
父島行きの一度目は3月で、二度目は10月でした。真夏を挟んで春と秋ですが、東京から南に1000kmの父島はどちらも真夏のような感じでした。最初に行った時だったでしょうかね、店先に「小笠原にも冬が来ました。肉まん・あんまんをどうぞ」みたいた張り紙があって笑ったのを覚えています。
当事はいまのような放送衛星(BS、CS)がありませんでしたので、当然テレビの生放送もなく、週に一度やって来る父島丸(と云う名前だったと思います)が運んで来るビデオテープによる放送を、島内のケーブルテレビで見ていたようです。電話はありましたが、本土との通信は短波によるもので、ノイズが多かったように記憶してます。
一度だけ電話局に出かけて本土に電話をしたことがありましたが、相手先の電話番号を書いた紙を局員に渡して、2、30分待ってからようやく郷秋<Gauche>の通話の番が回ってきましした。たぶん、一番安定した通信ができる10~18MHz辺りの周波数を両通話用に2回線確保しての電話だったのではないかと思います。周期の長いフェージングがありました。
アメリカから返還される前から住んでいた人の話によると、アメリカ統治時代は毎日グアムから飛行艇が飛んできていたとのことでしたが、返還後は生活物資のすべてが週に一便の船で運ばれてきていました。肉は冷凍になって、新聞は一週間分がビニールで包まれて運ばれてきていました。父島には東京から1000kmを飛べる飛行機が離着陸できるだけの長さの滑走路のある飛行場を作る土地が無いのです。
島内の診療所で対応できない病人が出た場合には、自衛隊の飛行艇が出動するようですが、当時、飛行艇で来島したのは当時の都知事だけだと聞きました。その交通事情はいまも変わっていないはすですし、世界自然遺産登録となるとますます空港の建設は難しくなるでしょうから、小笠原が「地球上で東京から一番遠い場所」であることは当分変わりそうにないようです。
昨日ご覧いただいた写真は境浦が一望できる山の上からものでしたが、今日の一枚は境浦の波打ち際まで下り撮影したもの。はたして濱江丸ものなのかどうかは定かではありませんが、直径が大人の背丈ほどはあろうかと云う大きなスクリューが浜に打ち上げられていました。濱江丸の甲板後方に木が生えているのがお分かり頂けるでしょうか。