小笠原かぁ・・・、懐かしいなぁ

 小笠原諸島が、その独自な生態系が評され世界自然遺産として登録されることが決定したようだ。小笠原かぁ、懐かしいなぁ・・・。実は郷秋<Gauche>は学生時代に二度ほど小笠原父島を訪ねたことがある。半世紀と四半世紀の間くらい前の事である。

 

 一度目は何の気なしに、ちょっとした気晴らしのつもりで出かけたのだが、すっかり魅せられた郷秋<Gauche>はその半年後に父島を再訪している。二度目は母島にも渡るつもりでいたのだが、生憎海が荒れていて200トン程と聞いていた船が出ないことから母島行きは叶わなかった。郷秋<Gauche>が魅せられたのはその自然よりも、島の歴史的成り立ちと史跡(戦跡)であった。

 

 小笠原諸島は日本人よりも早い時期にヨーロッパ人によって確認され、まずハワイ先住民族やイタリア系などの白人が定住するが、その後日本人も入植し欧米系住人との混住が始まる。欧米には日本語の無人島(ぶにんとう)から「ブニンアイランド」の名で知られるようになる。

 

 太平洋戦争が激化するまで日本人とし欧米系住人の混住が続くが戦争が激しくなり全ての住民が強制移住させられる。戦後はアメリカが統治し、まず欧米系住民が帰島し、主権が日本に返還された後に元島民の日本人が島に戻り、少数の欧米系住民と日本人の混住が再開される。

 

 郷秋<Gauche>の記憶によれば、見事な日本語を使うイタリア系移民の末裔であるセーボレイと云う一族が父島に暮らしていた。その住まいはハワイ辺りのそれを思わせるもので、日本のようでいて欧米的でもあるな不思議な雰囲気を醸していた。

 

 郷秋<Gauche>が興味を持ったのはそんな小笠原の文化社会的な側面で、当時、フォトジャーナリストを目指していた郷秋<Gauche>は、特に二度目の小笠原行はその道への第一歩を印す覚悟で乗船したのだが、その夢は無残にも当たって砕け散ったのであったが、今回の騒ぎの中であらためて当時のネガを見てみると、決して悪くない幾枚かを見つけることが出来た。

 

 これまでにも、小田急線鶴川駅近くの「お化けマンション」や「1973年の横須賀」など、郷秋<Gauche>が大昔に撮影した作品をご覧いただいたが、今回も今日からしばらくの間、1976年の小笠原父島にお付き合いいただきたい。

 

 

 手元に子細な資料がないのであるいは誤りがあるかも知れないが、数十年前の記憶と若干の資料によれば、眼下右手は父島最良の海水浴場とされる小港海岸。正面に見える岬に更に向こうに見えているのは二見湾に面した小笠原村役場辺りの集落か。

写真のデータ:カメラとレンズは多分ペンタックスSL+28mm F3.5。フィルムはイルフォードの400で現像液はD76。エプソンGT-X820でデジタルデータ化。

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