新聞記事を見て、一度は見ておきたいと考えてきました。
28日の朝、京王線の電車を撮った後、子供宅立ち寄り、早めに東大和市へ向かいます。
現地に着いてみると「東大和南公園」の駐車場は、前の車で満車!!
残念!! 無念!!!
空きそうもないので近隣イトーヨーカド-駐車場へ停める。
人の流れに沿いながら進むと、大きな木とビル群に囲まれた公園へ到着
記事で見かけた写真の建物を発見。
とは言え、会場ではこの建物のイメージとは全くそぐわないイベントの真っ最中!
行列と大混雑の通路を抜け、建物へ近寄りました。
アップで
手前の畑の中に在るエンジン
「SUBARU」と読めるから、戦後の作品だろうか?
建物へ近づきます。
銃撃の後が生々しい
玄関から見上げ
左側と記念品
案内板
銘版は読みにくそうなので、ウィキペディァより、コピペですが、
- 立川工場
- 東京瓦斯電気工業時代からの工場で、現在の東京都東大和市桜が丘にあり、最盛期には14,000人の従業員を要する日立航空機最大のエンジン製造工場であった。1944年には月産350基を製造し、全社エンジン生産量の半数を占めた。
- 1945年2月17日と同年4月24日に立川飛行場や立川飛行機と共に攻撃され、組立工場、熱処理工場、治工具工場が完全に破壊されるなど、人員に多数の死傷者を出し工場の50%が壊滅した。空襲激化によって疎開計画が実施され、津田塾大学を始めとする学校や、工場周辺の土地、武蔵村山市の横田トンネル工場、物見山近くの八州地下工場に設備と人員が移された。1946年6月に疎開が完了する予定であった八州地下工場は、工事が約20%進捗した時点で終戦を迎えた。
- 空襲の弾痕の跡が生々しく残る旧日立航空機立川工場変電所は、小松ゼノア時代の1993年まで現役として稼動し続け、東大和市指定文化財(史跡)として都立東大和南公園内に保存されている。なお東京都東大和市の南街の由来は、同工場の従業員居住地区として開発された事による。
4月27日と28日限定で、内部も見学できるので、入って見ました。
内部には、ボランティアさんによる説明会がほぼ常設で聞かれました。
銃弾が貫通した壁や当時を想像させられるバッテリーが並んでいました。
外へ出て、改めて拝見
夏の日差しがまぶしい
アメリカ軍の情報収集力と、勝つための具体的な戦術は、
アメリカンフットボールの自在なインフォメーションにも似て、システマチックで見事です。
この小さな建物を数度も銃撃しなければいけなかったのは、日本の飛行機技術が優れていたと言う証なのだろう。
この戦いの結果、牙を抜かれたアジアの暴れん坊は、ほぼアメリカの言いなりになる同盟国(属国?)に変貌していく。
一寸早めの昼食を食べ、
スーツ売り場を探すが、「売り場は廃止になりました!」
???
自宅へと戻ります。
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いつも、
有り難う
ございます。