次は「純な魂」という作品である。この題名のよってきたるところは、エピグラフに明確に示されている。レイモン・ラディゲの『ドルジェル伯の舞踏会』の一節がそれである。
「けれども純な魂のする無意識の工夫工面は、邪な心のする企みよりもはるかに特異なものである」
ここでフエンテスはラディゲが言う純な魂(?me pure)が、いかに残酷な行いをするかということを、ラディゲの『ドルジェル伯の舞踏会』の方法に倣って書くのだと宣言しているかのようにさえ読める。
レイモン・ラディゲに深く傾倒した我が国の大岡昇平が『武蔵野夫人』のエピグラフに「ドルジェル伯爵夫人のような心の動きは時代おくれであろうか」という一節を掲げたのと同様のことをフエンテスは行っているのであり、このことは「純な魂」を読む上で非常に大きな意味を持っていると私は思う。
この作品は第一にゴシック小説である以前に、心理小説であるのだということを、エピグラフ自体が示している。レイモン・ラディゲはフランス心理小説の伝統の最後の継承者であったし、心理小説の最後の完成者でもあった。そのことを抜きに「純な魂」という作品について語ることは出来ない。
ラディゲの『ドルジェル伯の舞踏会』だけでなく、あの『肉体の悪魔』にもほとんどゴシック的な要素はない。ひたすらラディゲはラファイエット夫人の『クレーヴの奥方』という心理小説の原点に帰ろうとしているのであって、ラディゲの作品にゴシック的な要素を見つけ出すことは出来ないのである。
しかし、心理小説とゴシック小説をある意味で融合させた作家が、アメリカのヘンリー・ジェイムズなのであって、フエンテスもまたホセ・ドノソのようにヘンリー・ジェイムズに傾倒していた作家であった。
ヘンリー・ジェイムズが心理小説とゴシック小説を融合させたということの意味はどこにあるだろうか。旧態依然としたゴシック小説はそのルーティンに従って、城や墓場、地下牢や迷路の中に物語を展開していき、その多くは通俗に堕してしまうのだが、ヘンリー・ジェイムズは人間の心理を通してゴシック的な世界を展開したところにその特異性がある。
人間の心理というものがある意味で閉鎖的な空間、あるいは閉鎖的な時間というものを形成するということをジェイムズはよく知っていたのだと思う。
人間の心理もまたゴシック的なものでありうるのだということを、ジェイムズの小説はよく理解させてくれるのである。その意味でまったくゴシック小説ではなかったラディゲの『ドルジェル伯の舞踏会』も、ゴシック的要素を孕まざるを得ないのでる。
ということで、以上のような前提に立って「純な魂」を読んでいくことにしよう。