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しかし実際に子供達に与えられるものは人肉ではない。人肉の正体は"隠花植物"とされているが、それは地下の迷宮にうち捨てられた隠花植物園に繁殖する人肉に似た味の隠花植物なのである。料理長はこれを支配の道具として利用するのである。料理長は言う。
「実は、我々が子供たちに与えているのは隠花植物であり、そのなかの硬い種類を調理すると、人肉の味のように偽装することができる。というのも、吐き気を催すような得体の知れない臭みがあって、これが人肉料理の味だと子供たちに吹き込んでやれば、簡単に信じ込んで吐き気を催さずにはいられないのだ。だから、隠花植物をすべて塞いだりすれば、子供たちに罰を与える術がなくなって、我々に与えられた最大の使命たる秩序の維持が困難になってしまうことだろう」
コスメが「僕は自由だ」と言うのに対して侯爵夫人が人肉を与えるように、料理長は子供達の自由を剥奪するために、人肉に似た隠花植物を与えるのである。ここでそれは選択の余地なく与えられる禁断の食料であり、なおかつ"罰"を与えるものとされている。
支配者が被支配者に対して、彼らを一瞬喜ばせるが、やがて自分たちが自由ではないことを再確認させるための装置であると考えれば、それが偽装された温情であり、偽装された自由であることは明らかであろう。ただし、それを具体的に何と限定することはできない。人肉というものもドノソは象徴として扱っているからである。
さて次は、料理長の"贅沢な"人肉食に対置される"やむを得ない"人肉食の場面である。第11章「荒野」にその場面はある。
地下の迷宮から脱出したウェンセスラオとアガピートは、アラベラ、アマデオと途中合流してグラミネアの荒野へと逃亡を続ける。アガピートは脱出時に負傷し、アラベラは使用人軍団によって拷問を受け傷ついている。アマデオは5歳であり、あまりにも幼い。食料もなければ水もない。まず、アマデオに限界がやってくる。アマデオは自分の死を覚悟して三人に言う。
「僕は食べてしまいたいほどかわいいのだろう? ずっとそう言われてきたもの」
「空腹で胃が痛むほどになって、山並みへ辿り着くまでどう生き延びたらいいのかもわからないのなら、僕を食べればいいよ、(中略)僕が食べてしまいたいほどかわいいなら、誰かに食べてもらうことが僕の運命じゃないか。仲間に食べられるのなら本望さ」
アマデオの許しを得て、彼の死後、ウェンセスラオ、アガピート、アラベラの三人はアマデオの肉を食べ、生き延びることになる。この三人の食人行為は決して汚らしくも、衝撃的にも、恐怖の相のもとにも描かれることはない。極めて自然な行為としてそれは描かれているので、読者は三人の食人行為に共感すら覚えるだろう。
ここでは「食べてしまいたいほどかわいい」という言葉が最後の変奏を聴かせるのであるし、食人ということが初めて肯定的に描かれるのである。その後ウェンセスラオに、食人を行ったことに対する罪悪感などというものが訪れることは決してないだろう。