玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ロベルト・ボラーニョ『2666』(7)

2016年01月03日 | ラテン・アメリカ文学

 ところで「フェイトの部」で、オスカー・フェイトもグアダルーペ・ロンカルもアマルフィターノ父娘も消えてしまう。彼らが『2666』に再登場することはない。そのことは第1部の登場人物達が、アマルフィターノを除いて一斉に消えてしまうのに似ている。
 ボラーニョは登場人物に固執しない。彼らが消えていくのなら消えていくのでかまわない。まるで彼らが旅先で出会う人物であるかのように(実際に彼らはすべて旅人であった)。『2666』が旅を基調にした物語であると言った意味はそこにある。
 しかし、旅のテーマに移行するのはまだ早すぎる。我々は「犯罪の部」と題された、恐るべき第4部の語るところに耳を傾けなければならない。
「犯罪の部」は前にも書いたように連続女性強姦殺人事件を犯罪調書のように執拗に記述したものである。この無機質な記述を読むことは、ある意味で苦痛である。だからこの苦痛に満ちた連綿たる記述を最後まで読ませるのは、ボラーニョの天才的な力量を証明しているというような批評さえあるのだ。
 しかし、そうなのだろうか。ある義務感がなければこれほど凄惨な殺人事件(数えてはいないが200件はあるのではないか)を記録し続けられるものではない。
 この連続殺人事件はメキシコ北部の都市シウダー=フアレスで実際にあった事件によっているらしい。1993年以来500人以上の女性が殺害され、行方不明を含めると5000人にも及ぶ婦女暴行殺人事件があり、そのほとんどが未解決のままであるという。被害者の多くはマキラドールで働く女工達である。サンタテレサは架空の都市だが、明らかにこのフアレスをモデルにしているのだ。
カルロス・フエンテスが「マキラドーラのマリンツィン」で舞台としていたのもフアレスの町である。『ガラスの国境』が発表されたのは1995年であるから、まだ事件は表面化していなかったのかも知れない。だからフエンテスはマキラドーラの町で起きた連続殺人事件のことも、ボラーニョが書いているギャング達の麻薬をめぐる抗争のことも、警察や刑務所の腐敗のことも書いていない。ボラーニョはフエンテスが書いていないこと、誰も書かなかったことを徹底的に書き尽くそうとしているのである。
しかし、義務感によっているだけなのだろうか。この止まるところを知らない殺人事件の列挙の縮小版が「犯罪の部」にはさりげなく隠されている。それは夜な夜な教会に現れて、小便をまき散らし、聖像を破壊し続ける正体不明の男についての診断に関わる部分である。
この男は神聖なものに対する恐怖と嫌悪に取り憑かれた"神聖恐怖症"(サクロフィリア)と診断されるが、病院の院長はそれに似た症例をざっと30あまりも列挙してみせるのである。橋渡恐怖症(ヘフィドロフォビア)、閉所恐怖症(クラウストロフォビア)、広場恐怖症(アゴラフォビア)、死体恐怖症(ネクロフォビア)、血液恐怖症(エマトフォビア)、毛髪恐怖症(トリコフォビア)、女性恐怖症(ヒネフォビア)、樹木恐怖症(デンドロフォビア)等々といった具合である。
このような執拗な列挙への情熱は、ボラーニョという作家の止むに止まれぬある種の症状であるのではないか。喜々として症例を挙げていく院長の姿に、連続女性強姦殺人事件を列挙していくボラーニョの姿が重なって見えるのである。
文学史上それは珍しいことですらない。マルキ・ド・サドの描く強姦の様々なヴァリエーションや、イジドール・デュカスの描くマルドロールの暴力のヴァリエーションを思い出して欲しい。残酷なものの列挙への衝動は明らかにサディスティックなものである。ボラーニョにもサディスティックな徴候が窺われるのである。
 とりあえず、吐き気をもよおすような殺人調書の短いものを一つだけ挙げておこう。
「九月初旬に見つかった遺体は、当初身元不明だったものの、のちにマリナ・エルナンデス=シルバだと判明した。年齢は十七歳、七月初めにレフォルマ区のバスコンセロス高校に登校する途中で行方不明になっていた。監察医によれば、レイプされ、絞殺されていた。片方の乳房がほぼ完全に切り取られ、もう片方は乳首を噛み切られていた」

 

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