クリス・ボルディックは、ゴシック・ロマンスの終焉以降、とりわけ20世紀に入って英語圏で数多く書かれた"幽霊譚"ghost storyとゴシック小説とを、はっきり区別して考えている。ボルディックは幽霊譚に、それが「愚かにも見捨てられてしまった古き信仰のために、それらが近代懐疑主義を超克することに捧げられている」という「保守的な傾向」を見て取っている。
確かにM・R・ジェイムズやA・ブラックウッドなどの幽霊譚にそのような傾向を見ることが出来る。彼らは幽霊というものに、古き良き信仰をないがしろにして顧みない同時代人への批判を託したと言えるかも知れない。
一方ゴシック小説に関してボルディックは「ゴシック小説は過去の智恵に対してそのような敬意はふつう示さず、それどころか、過去の時代を妄想の牢獄として描き出す傾向がある」と書いている。幽霊譚は過去に対して同調的であり、ゴシック小説はそうではない。
ゴシック小説は当初、時代設定として「中世後期あるいは近代初頭」を選択していたが、時代が下るにつれて時代設定も新しいものになっていく。そこが幽霊譚とは基本的に違うところである。ゴシック小説は現代をも舞台として設定することができるだろう。ボルディックは言う。
「原理においても実践においても、ゴシック物語を作者自身の時代を舞台とすることは、完璧に可能である。もしその物語が比較的囲い込まれた空間に焦点を当て、そこでいくばくかの古風で野蛮な規範がいまだに通用しているのであれば」
だからこそゴシック小説は、中世の城など存在するはずもない南北アメリカ大陸にまで、その伝統を引き継いでいったのである。ゴシックの本質は中世の城への憧れの中になどあるのではない。それは、古風で野蛮な規範が生き続けるところであれば、どこにでもその伝統を生き延びさせていくだろう。
ただしそれは「比較的囲い込まれた空間に焦点を当て」る限りにおいてである。この言葉が何を意味しているかは明白である。ゴシック小説に最も欠かせないものはこの「囲い込まれた空間」にこそある。私が言う"閉鎖空間"あるいは"閉ざされた庭"がそれである。
なぜゴシック小説がその初期において、中世の古城や修道院そして地下牢などを好んで舞台としたのかということは、閉鎖空間として認識されるものがそのようなものに代表されていたため、あるいは人を物理的に閉じ込めるカトリックの専制に対する批判を動機としていたためと考えられる。
しかし、中世の城など存在しない南北アメリカ大陸にあっては、閉鎖空間はヨーロッパとは違うものでなければならない。そうした閉鎖空間を代替するものについて、私はこの「ゴシック論」でいろいろと指摘してきたつもりである。ハーマン・メルヴィルやビオイ=カサーレスにおける船や孤島、ヘンリー・ジェイムズにおける古い屋敷、ホセ・ドノソにおける貴族達の別荘と地下の迷宮、カルロス・フエンテスにおけるメキシコ、あるいはロベルト・ボラーニョにおけるサンタテレサの町も、そのような代替物として挙げることができる。
これまで取り上げてはいないが、ウィリアム・フォークナーにおけるジェファソン、フアン・ルルフォにおけるコマラ、ガルシア=マルケスにおけるマコンドも、架空の町を閉鎖空間として舞台としたものだと言えるだろう。
以上挙げた南北アメリカの作家達は、彼らが創造する閉鎖空間について、それが古き良き時代の貴重な遺産であるなどとはみじんも考えていない。彼らはそうした閉鎖空間を破壊するためにこそ、そのような空間を創造したのであるから。
それらは一部「古風で野蛮な規範」をもたらすものですらない。むしろ、"現代における抑圧的規範"と、彼らが提示するものを名付けることさえ可能であろう。彼らは彼らの時代の抑圧的規範に対して闘っているのである。ゴシックの伝統はこのように南北アメリカ大陸において、極めてアクチュアルなものとして生き続けているのである。