ハンス・ライターが戦場で見つけ、繰り返し読んでいくアンスキーの手記の存在は重要である。アルチンボルディというペンネームも、アンスキーの手記がなかったらあり得なかっただろう。しかし、ハンス・ライターがアンスキーの手記から、どのような文学的影響を受けたかについてはまったく書かれていない。手記の最後の記述について次のように書かれているだけである。
「アンスキーは異世界について考える。その頃ヒトラーがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まる。ワルシャワ陥落、パリ陥落、ソ連への攻撃、無秩序においてのみ我々は存在しうる。ある夜、アンスキーは空が大きな血の海になっている夢を見る」
このような言葉は、ハンス・ライターが読むアンスキーの言葉というよりは、ボラーニョ自身のものとして読まれる必要がある。
「アルチンボルディの部」は戦争という暴力の中で、ハンス・ライターがいかにして作家アルチンボルディになっていくかという物語なのであるが、肝心なその内実が語られない。これはいわゆるビルディングス・ロマン(教養小説)ではないのだ。ボラーニョは偉大な作家がどのようにして誕生したか、そのことを目的論的に書くことをまったくしないのだ。
多くの出会いと多くの旅が綴られていく。アンスキーの手記よりも先に、ハンス・ライターは少年時代に働いていたプロイセンのフォン・ツンペ男爵の別荘で、男爵の甥フーゴ・ハルダーという文学青年と出会い、彼と友情を深める。ハンス・ライターは生涯にわたって、戦後行方の知れなくなったハルダーを探し求める。だから最初の文学への目覚めは、ハルダーによってもたらされたのだと言える。
そこで、ベンノ・フォン・アルチンボルディというおかしなペンネームの謎がすべて解ける。ベンノはベニート・フアレスから、フォンはフォン・ツンペ男爵から、アルチンボルディはジュゼッペ・アルチンボルドから来ているのである。
またハンス・ライターが事実上の妻とするインゲボルグ・バウアーは、ハルダーがいた部屋に住んでいた女性であるし、作家となった後愛人とする出版社社長の妻は、フォン・ツンペ男爵の令嬢、つまりハルダーの従妹なのである。ハンス・ライターはフーゴ・ハルダーの思い出の中に生きていくのである。
多くの旅が語られていく。敗戦後ドイツに戻り降伏して収容されたアンスバッハ郊外の捕虜収容所では、レオ・ザマーという男と出会う。ザマーは戦時中、ある組織の局長として、彼の元へ間違って送られてきたギリシャ系ユダヤ人500人を、不本意ながら部下に命じて全員射殺させる。収容所内でこの男は絞殺死体となって発見される。アメリカ軍に逮捕されることを恐れたザマーは、ハンス・ライターに"殺してくれ"と頼んだのである(このことは明言されてはいないが、後にライターがザマーを殺したと告白していることからの類推である)。
捕虜収容所を出たハンス・ライターはケルンでインゲボルグ・バウアーと出会い同棲、最初の小説を書き上げて、ケルンの町でタイプライターを貸してくれる人を捜す。そこで出会うのが元作家で、すべてのマイナーな作品(傑作ではない作品)は盗作だということに気づいて、書くことをやめた老人である。この老人の告白もアルチンボルディの作家としてのあり方に影響を与えるだろう。でもその内実が語られることはない。
小説の出版先を求めてフランクフルトの出版社を訪ね、そこでフォン・ツンペ男爵令嬢と出会って関係を持つ。一方インゲボルグの病を治すために、バイエルン・アルプスの町ケンプテンに居を移し、彼女の回復後、二人でオーストリア、スイス、イタリアへと旅をする。イタリアではヴェネツィア、ミラノ、ボローニャ、フィレンツェ、ローマなど主要都市を訪れる。その後アドリア海に面した小村でインゲボルグは生涯を終える。
インゲボルグが高熱をおして山をさまよい、ハンス・ライターと二人で星空を見上げる場面が印象深い。インゲボルグはこんなことを言うのである。
「あの光はどれも何千年も何万年も昔のものなの。過去のものなのよ。あの星が光を放ったとき、わたしたちはまだ存在していなかったし、地球上に生命はなかったし、地球すら存在していなかった。あの輝きはものすごく古いものなのよ。過去なの。わたしたちは過去に囲まれてる」
ボラーニョは時にこんな場違いなほどに美しい場面を描く。あの犯罪調書の列挙とはまったく逆に……。不思議な作家である。