「野生の蜜」という作品は、好奇心だけで密林の生活を体験したいと思い、その恐ろしさを知らない青年が、密林で蜂の巣房を見つけるが、その蜜を飲んで麻痺に陥り、殺人蟻に食い尽くされてしまうという単純な話である。
密林の恐怖を描いているかも知れないが、密林の持つ呪術的、神話的な意味について、たとえばマリオ・バルガス=リョサが『密林の語り部』で追究しているような部分を持ってはいない。魔術的リアリズムは人間の魔術、あるいは神(キリスト教のではなく土俗神の)の行う超自然的な現象への意識なしには成立しない。密林を描いているからといって、それがそのまま魔術的リアリズムにつながるわけではない。
(バルガス=リョサにしても、彼の作品が魔術的リアリズムに近づくのは1987年の『密林の語り部』ただ一作においてでしかない。他の多くの彼の作品に魔術的リアリズムの要素はない。もともとバルガス=リョサには幻想的な資質もなく、彼の方法は基本的にはリアリズムである。)
「恐竜」という作品はむしろ密林を舞台にしたSF的な作品である。密林の気象観測所で観測データを報告し続ける主人公が、数億年(原作では数百万年となっているが)の時間の障壁を越えてやって来た恐竜、ノトサウルスと親密になり一緒に暮らすうちに、自分もまた退化して原始人に近づいていくが、その時ノトサウルスは彼を喰おうとするというストーリー。
この作品には密林と密林の歴史に対する畏怖の念は感じられるが、魔術的リアリズムと言えるような要素はない。むしろ後のビオイ=カサーレスに見られるようなSF的要素に彩られている。
一方、いくつかのアンソロジーに採用されている「羽根枕」という作品は都市小説である。新婚の妻がなぜか日ごとに衰弱していき、原因も分からぬまま死んでしまうが、死後妻の枕の中に巨大な寄生生物が発見され、どうやらその生物が羽根枕の中に潜んでいて、妻はそれに血を吸われて死んだのではないかというお話である。
この「羽根枕」には幻想性さえない。イギリスの恐怖小説、怪奇小説によくある怪異譚であって、どちらかといえば推理小説的である。ただし、キローガの作品には「彼方で」や「幽霊」のように、死んでしまった恋人達が幽霊となって一人称で語るといった幻想的なものもあり、まったく幻想性がないわけではない。
キローガは「完璧な短編作家の十戒」という文章を残していて、その第一戒は「神を信じるごとく、ポー、モーパッサン、キプリング、チェーホフといった巨匠を信じよ」というものである。
キローガはシュルレアリスムの洗礼さえ受けていない。キローガは1878年生まれで、そのような洗礼を受けたのは彼の次の世代の作家達ということになる。キローガは都市小説において南米のポーであり、密林小説において南米のキプリングなのである。
ところでこのオラシオ・キローガという人の一生は死の色に染め上げられている。若い時に決闘に臨む親友に銃の撃ち方を教えているうちに、誤ってその親友を撃ち殺してしまう。密林生活に耐えかねた妻を自殺で失っている。キローガ自身も胃癌の病苦から自殺しているし、彼の死後残された長女と長男も自殺を遂げているという。
そのためキローガの作品は死をテーマにしたものが圧倒的な割合を占めていて、『野生の蜜』に収められた30編のうち26編が死と関連した作品なのである。
そんな作品群の中で「頭を切られた雌鳥」という作品が、私には最も衝撃的であった。誕生後数ヶ月にして発作により痴呆と化した、四人の男の子を持つ夫婦の物語である。その原因についての責任をめぐって諍いを繰り返す夫婦はやがて健常な女の子をさずかる。
しかし、女中が台所で鶏の頸を切り、血を抜く作業を行うのを見ているうちに異常に昂奮した四人の男の子達は、女の子を鶏と同じようにして殺してしまうのである。
この作品を読んで私は、ホセ・ドノソの『別荘』の中で、原住民が豚を生贄として捧げる儀式を見て、妹ミニョンが姉のアイーダを同じようにして殺す恐怖のエピソードを思い出さずにはいられない。どちらも無知と幼稚さの故に殺意を持ってではなく、遊戯のように姉妹を殺してしまうのである。キローガのこの残酷な作品は、たぶんドノソのエピソードに影響しているに違いないと思っている。
(この項おわり)