玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ロベルト・ボラーニョ『2666』(9)

2016年01月05日 | ラテン・アメリカ文学

 昨日、ラジオのニュースを聴いていたら、メキシコ中部のテミスコ市で麻薬犯罪撲滅や誘拐事件一掃を訴えて当選した、ギセラ・モタ女性市長(33)が就任の翌日に武装集団に自宅を襲われ、銃で殺害されたということが報じられた。このように首長や政治家が犯罪組織に殺害されるのは、これまでに百件に及んでいるという(いつからかは聞き逃した)。
 メキシコでは未だに麻薬を巡る犯罪組織の暴力や、女性誘拐事件が後を絶たず、市長が就任直後に殺されるなどというとんでもない事件がごく普通に起きていることが分かる。『2666』の背景にあるのはこのような現実なのである。ちなみにサンタテレサのモデルとなった、シウダー=フアレス市はつい最近まで、戦争地帯を除いて世界で最も治安の悪い地域とされていたことも言っておきたい。

 さて、いよいよ最後の「アルチンボルディの部」に辿り着いた。しかし、最後の部でこれまでの四つの部に仕掛けられていた謎が解明されるわけでは決してない。明かされるのは、第四部に登場するクラウス・ハースが、アルチンボルディの妹ロッテの息子であり、彼は甥がメキシコで逮捕されたという情報を得て、メキシコのサンタテレサへ向かうのである。
 そのことは第五部の結末と第一部の始まりを円環構造に結びつける役割を果たし、『2666』という小説が決して終わらない小説であることを示すだろう。第四部であれほど執拗に繰り返された連続女性強姦殺人事件の謎が解明されるわけでもなければ、クラウス・ハースが冤罪を晴らすという結末が与えられるわけでもない。
 この長大な小説は、世界を未完のまま、あるいは未解決のまま放り出すと言うか、世界とはもともとそのようなものであるということ、小説とは解決のないおぞましい世界に対して戦い続けることだという、メッセージを発しているのだと読まれるべきだろう。
『2666』を読みながらずっと感じていた「掴みどころのなさ」は、ボラーニョのそのような世界観、あるいは小説観から来るのだと言える。割り切れる部分がないのでる。そして、カルロス・フエンテスの『ガラスの国境』にはあった、終曲としてのコーダも持ってはいないのだ。
 ただし「アルチンボルディの部」は、これまでの部とはやや違った印象を与える。まがりなりにも一人の人物に的を絞って、彼の生い立ちから現在までを追跡していくからである。しかし、ここでも多くのエピソードが連ねられていくが、それらが遡及的に語られることがないのは、これまでの部と同様である。
 後のアルチンボルディことハンス・ライターは、1920年ドイツで片目の母親と片足の父親の間に生まれる。父は第一次世界大戦で片足を失った元兵士なのである。ハンスがたらいで風呂に入れてもらう場面がある。
「片目の女がたらいで風呂に入れてやるとき、赤ん坊のハンス・ライターは石鹸の泡だらけの母親の手からいつも滑り落ち、両目をぱっちり開けたまま底に沈んだ」
 ドイツ人というものは「森というメタファーの中で生きている」というが(エリアス・カネッティとホルヘ・ルイス・ボルヘスがそう言っているらしい)、ハンス・ライターはそうではなく、水の底というメタファーの中で生きるのである。生まれ落ちた時から他とは異質な生を宿命づけられたこの子供を見ると、ギュンター・グラスの『ブリキの太鼓』を思い出さずにはいられない。しかし、この赤ん坊は小人になるのではなく、巨人に成長していくのである。
 明らかに『ブリキの太鼓』を意識している「アルチンボルディの部」は、グラスと同じように第二次世界大戦における、ナチスドイツの連戦連勝とユダヤ人の大量虐殺、そして敗北を描いていくのである。
 ハンス・ライターは20歳で召集され、ドイツ軍の兵士としてポーランド侵攻の電撃作戦に従軍し、その後西方へ送られてマジノ線を巡る闘いに参加し、ナチスのソ連侵攻作戦によって再び東方へ送られ、ルーマニアからウクライナ、クリミア半島に至る。
(このナチスによるソ連侵攻については昨年邦訳出版された、ティモシー・スナイダーの『ブラッドランド』に詳しい。上巻267頁に掲載された図版でハンス・ライターの足取りを追うことができる)
 ボラーニョは戦争が兵士にもたらす狂気について繰り返し書いていくが、ハンス・ライターもまた戦闘の恐怖を逃れるため弾丸に当たって死ぬことを望んでいる。そのようにして彼は重傷を負うだろう。ウクライナまで後送され、病院で治癒を得た後、住民のいなくなった丸太小屋に住むが、そこでハンスは重要なものを発見する。
 ソヴィエト・ユダヤ人のボリス・アブラモヴィッチ・アンスキーという男の書いた手記がそれで、その紹介が延々30頁も続くのである。アンスキーは、ロシア人作家エフライム・イワノフのゴーストライターを務めていたらしい。アンスキーの手記によってハンス・ライターは、16世紀イタリアの画家アルチンボルドについて知ることになる。"アルチンボルディ"という作家の誕生秘話である。
 ところでこの手記の紹介の部分で、ボラーニョは初めて重層的な説話構造を実現している。とりとめのない手記の中に、別のエピソードが長々と展開されて、説話の構造が三層に膨れあがるのである。これこそゴシック小説が多用した方法であって、現在でもこの方法は生きているのである。

ティモシー・スナイダー『ブラッドランド』上下巻(2015、筑摩書房)布施由紀子訳