2月1日、第68回読売文学賞受賞者の発表があった。詩歌俳句賞には、玄文社が発行する「北方文学」第74号の巻頭に作品を寄せてくださった、ジェフリー・アングルスさんの詩集『わたしの日付変更線』が選ばれた。
すでにこのブログにも『わたしの日付変更線』について書いているが、受賞にあわせてもう少し書いておきたい。
まず、1月26日の新聞紙上に発表された、詩人の平田俊子さんの紹介文について。平田さんは次のように書いている。
「慎重に言葉が選ばれ、紡がれている。どの作品も巧みに仕上がっている。が、どことなく、ぎこちなさはつきまとう。日本語にたけた人でさえ、母語以外の言語で詩を書くことはかくも難しいものらしい。しかし、ぎこちなさこそ、この詩集の特色であり、魅力でもあると思う。なぜなら詩や言語をめぐる果敢な実験の産物だからだ。」(新潟日報)
確かに〝ぎこちなさ〟というのはあって、「北方文学」に掲載した「あやふやな雲梯」についても、日本人の誰もが納得する表現とは言えない部分もあり、修正したい気持ちに駆られたが、直してしまうと詩句としての魅力の大半が失われてしまう懸念があり、最小限の修正に止めた(本人が「おかしいところがあったら直してくれ」と言うので)。
ある意味でこのような在り方は詩人にとって僥倖とも言えるのであり、母語以外の言語で詩を書く場合にしかこのようなことは起こり得ないだろう。多分、小説ではそのような僥倖が作家にもたらされることはない。
ところで、オバマ大統領の広島訪問に触発して書かれたという「あやふやな雲梯」について少し紹介しておきたい。第4連は次のようなものである。
哲学者が言う
荒れ狂う大洋にも
鳴り始める雷雲にも
崇高が宿っている
落ちかかる断崖も
荒廃のみ残す暴風も
雄大であればあるほど
人類を自己超越という
方向に惹きつける
ジェフリーさんの言う哲学者とは、イマヌエル・カントのことであるが、ここに示されている、恐怖をもたらす現象や凶暴性にも〝崇高〟の概念が含まれるという考え方は、カントが影響を受けたエドマンド・バークの『崇高と美の観念の起原』で展開されたものである。
カントもバークも、もちろん核兵器などを想定することは出来なかったわけだが、現代の美学は核兵器の凶暴な破壊力にも崇高の概念を見出すのであろうか。
ジェフリーさんは多分そのことを否定している。最終の第5連はその証左と考えられる。
振り返ってみると
雲梯の計り知れない
輪郭に見出すのは
自分自身ではないか
自己というものの限界と
そのみすぼらしい
壊れやすさ
雲梯は「みすぼらし」く、「壊れやすい」。「あやふや」なものでそれはある。それにしても、いわゆるキノコ雲の輪郭を自分自身の存在に譬えるなどという発想が途方もないものではないか。
バーク=カントの美学は崇高というものを内面化したのであり、ジェフリーさんは彼等の美学に依拠して、崇高なる破壊力というものを内面化して見せた。それを自己否定によって乗り越える作業が、この作品として結実しているのだと私は思う。
ジェフリー・アングルス「あやふやな雲梯」(2016、「北方文学」第74号)