玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

デイヴィド・パンター『恐怖の文学』(7)

2017年02月23日 | ゴシック論

 第7章は「アメリカ・ゴシック小説」で、チャールズ・ブロックデン・ブラウン、ナサニエル・ホーソーン、エドガー・アラン・ポーの三人の作家を取り上げて、アメリカ・ゴシック小説の特徴の分析に充てている。
 ブラウンはアメリカ最初の職業作家と言われているが、最初の作家がゴシック作家であったということ自体がアメリカ文学の在り方を象徴しているように思う。
 アメリカ文学はそのほとんどがゴシックだという人さえいて、本家イギリスのゴシック小説が衰退した後も、根強く生き続けて今日に至っている。それがなぜなのかということの分析を、私はパンターに期待したのであったが、その期待が十分かなえられたとは言い難い。
 まずパンターはアメリカ・ゴシック小説というものを、「イギリス・ゴシック小説の〈屈折したもの〉」と定義する。その後でパンターは続ける。

「イギリス・ゴシックには、直接に連なる過去の背景があるが、アメリカ・ゴシックの場合には、現在と過去の間に介在する一つの段階がある。つまり、漠然とした歴史的「ヨーロッパ」、即ち、既に神話化した「旧世界」によってしばしば表現されている段階である。」

 歴史的廃墟もなければ、カトリックの修道院も、異端審問所もないアメリカで、なぜゴシック小説が猖獗を極めたのか不思議なのだが、その要因としてパンターの言う「ピューリタニズムとその遺産」があったことは確かと思われる。
 イギリスのゴシック小説の特徴としての反カトリシズム、あるいはジェイムズ・ホッグに見られる狂信的なピューリタニズムに対する批判を、アメリカ・ゴシックは受け継いでいるのである。
 しかし、この辺の事情がキリスト教のことも知らない日本人である私にはよく理解出来ない。だから、パンターにその謎の解明を期待したのであったが、彼はその期待に応えてくれない。
 確かにアメリカの作家は、旧世界的なゴシック小説をよく書いた。ハーマン・メルヴィルの短編「鐘塔」という作品を思い出す。この短編などは、遠いヨーロッパの記憶なしには書かれ得ない作品である。
 またパンターも言うように、ポーの作品もまた旧世界的である。しかしそのことは、歴史の浅いアメリカにおいて、先行するヨーロッパの作品の影響なしに小説は書かれ得ないという意味はあっても、そのことがアメリカ・ゴシックのゴシック性を強化したという説明にはならない。
 三人の作家のことに戻ろう。ブラウンの『ウィーランド』という作品を私は読んだが、その推理小説的結構が好きになれなかったし、ゴシックの暗黒という面でも食い足りなかった。ただし、主人公ウィーランドが宗教的妄想に駆られて家族を惨殺するところは、ホッグに共通する部分もあり、よく書けていると思った。
 パンターによるブラウンへの評価は次のようなものになる。

「ブラウンの著作に見られる理性の力強さと、感情の希薄さが彼の描くアメリカの特徴なのである。つまり、精神的諸世界が恐怖に満ちた過去の重圧の下に埋没してはいない状況に、固有の正確さでその精神的諸世界を探求するのが、ブラウンの手腕である。」

 このことはブラウンの限界であって、パンターによればその方向を決定的に変えたのがホーソーンとポーであった。ならばこの二人は「精神的諸世界が恐怖に満ちた過去の重圧の下にある状況」をなによりも描き出したのである。