玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

デイヴィド・パンター『恐怖の文学』(4)

2017年02月20日 | ゴシック論

 第3章「古典ゴシック小説」は、ゴシック小説がピークを迎えた時代の二人の作家、アン・ラドクリフとマシュー・グレゴリー・ルイスを扱っている。
 パンターがゴシック小説の創始者であるホレース・ウォルポールやウィリアム・ベックフォードの作品をあまり重要視せず、ラドクリフとルイスに重点を置いている(ベックフォードについてはほとんど言及がない)のは、彼がこの二人の作品をゴシック小説の典型的な作品と考えているからであろう。二人の作品を分析することで、それ以降のゴシック小説を見通す視座を獲得しているように思う。
 しかし、私はルイスの『マンク』は大嫌いであるし、ラドクリフの『ユドルフォの謎』も文学作品として評価することがまったく出来ない。パンターはこの二人の作品に過大な評価を与えているように思われるが、それがゴシック小説の典型であることは認めてもよい。
 ただし、二人の作品が同質なものであるという指摘に対してはそれに同意することは出来ない。パンターは次のように書いている。

「ラドクリフとルイスは、二つのはっきりと異なったタイプのゴシック小説の主唱者だと従来みなされてきたが、実際のところは、文体上の差異はあるものの、恐怖という主題に没入している点では、大いに、そして考えようによっては当惑を覚えるほど、両者は一体なのである。」

 ゴシック小説が後に、推理小説的な方向と悪漢小説あるいは残酷小説的な方向に分離していくのだとすれば、この二人の作家の作品が源流にあるのに違いない。
 ラドクリフの作品は超自然を許容せず、すべてに合理的な説明を与えていくという意味で、推理小説の源に位置する。ラドクリフの作品にはルイスの『マンク』に見られるような、性的欲望の全面的な解放あるいはサディズム的な要素はない。エミリーがいかにいわれなき辛苦に耐え続けるとしても、それはラドクリフがエミリーに対してサディズム的な嗜好を持っているからではなく、「最後は善が勝利を収める」という勧善懲悪的な考えからそうしているのである。
 一方、ルイスの『マンク』にはアンブロシオの欲望貫徹への作者の共感が読み取れる。この作品も勧善懲悪的な考えに貫かれているのかも知れないが、明らかに作者のサディズム的な欲望を背景にしているのである。
 またパンターは、二人の作品における悪漢達の人物造形に対しても、過大な評価を下しているように思われる。『マンク』におけるアンブロシオ、『ユドルフォの謎』におけるモントーニの描き方に、私はそれほどの深みも独創性も認めることは出来ないが、パンターはそうは考えない。
 ゴシック小説はもともと「かなり型にはまった登場人物が出てくること」を特徴としていたと、パンター自身が言うように『ユドルフォの謎』の登場人物も、『マンク』の登場人物も十分に類型的であって、モントーニもアンブロシオも悪人としてまったく個性的ではない。
 悪の化身としての登場人物を、その比類なき苦悩も含めて真に迫真的に描いた小説としては、チャールズ・ロバート・マチューリンの『放浪者メルモス』と、ジェイムズ・ホッグの『悪の誘惑』を待たなければならない。そしてラドクリフのモントーニやルイスのアンブルロシオは、マチューリンのメルモスやホッグのウリンギムの源流に位置づけられる存在ではない。
 またパンターがラドクリフとルイスの作品を、恐怖の同質性に置いて評価しているのも、私には違うのではないかと思われる。ラドクリフの恐怖は超自然的現象に対する恐怖を主にしているのに対して、ルイスの恐怖は欲望の犠牲となることへの恐怖、つまりは暴力への恐怖を主にしていると思われるからである。