玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

デイヴィド・パンター『恐怖の文学』(8)

2017年02月24日 | ゴシック論

 ホーソーンとポーについて取り上げられているのは、それぞれ『七破風の屋敷』と「アッシャー家の崩壊」である。ホーソーンに関して、私は短編小説しか読んだことがなく、『七破風の屋敷』も『緋文字』も読んでいないので、多くは語れないが、短編を読む限りホーソーンもまた、まぎれもなくゴシック作家であったと思う。
 パンターは『七破風の屋敷』について、舞台となる屋敷が「ヨーロッパ・スタイルの猿真似」として造られたものであったこと、そしてそれが抑圧された血脈の物語であったことを指摘する。

「七破風の屋敷の礎石は血で汚されている。迫害を受けた人間の血が付いていて、何を持ってしてもその汚点を除くことはできない。」

 この言葉はポーの「アッシャー家の崩壊」にも当てはまるもので、パンターはそこに「血統という問題を扱おうとした一つの試み」を読み取る。さらにパンターはそれを迫害によって「罪の輪のなかに閉じ込められた」血の記憶がもたらす恐怖というテーマに結びつける。
 パンターのこの本の基調は〈迫害-恐怖〉といったものになっていて、そこから階級間の闘争のような議論も出発している。『七破風の屋敷』についてパンターは次のように言う。

「『七破風の屋敷』は貴族についての中産階級の神話ではなく、庶民の権利を奪おうとした強力な〈上層中産階級〉についての下層中産階級の神話である。」

 プロレタリアートが出現するまであと一歩といったところだが、パンターにとってはゴシックの担い手が、虐げられ迫害された下層階級であればあるほど好ましいのである。
 何度も書くがこのような階級論からは、その時代に流行する小説の傾向の根拠を見出すことは出来るかも知れないが、ゴシック小説の本質とその継承については何も発見することは出来ない。
 むしろ抑圧された血統ということの方が、ゴシックの本質にとっては重要な概念である。ポーの「アッシャー家の崩壊」はその典型をなす物語であるが、しかし、そこに迫害される主体の権利の正統性があるのだろうか。
「アッシャー家の崩壊」で主人公は迫害されるのではなく、むしろ迫害する主体である。妹との近親相姦的な関係、そこに流れる汚れた血脈、そして自身を苛む罪障感、さらにそこに醸し出される恐怖、それらが一体となってアッシャーの屋敷とロデリック・アッシャーとを崩壊に導くのである。迫害・血脈・罪障感・恐怖は渾然一体となっていて、どれがどれの原因でもなければ結果でもない。
 以前に取り上げたクリス・ボルディックはゴシック小説の特徴を、時間的な相続恐怖と空間的な閉所恐怖に見ていたが、こちらの方がはるかに本質を突いた見解であると同時に、ゴシック小説を考える上で有効な見方であると思う。
 相続恐怖と閉所恐怖の二つを同時に徹底して追求したのが「アッシャー家の崩壊」という作品ではなかったか。パンターの議論からは〈迫害-恐怖〉という図式しか見えてこず、作品の背景に社会的・歴史的な要因を探し回るという作業が必要になるが、それでは文学を理解したことにはならない。
 相続恐怖と閉所恐怖を軸にすれば、ゴシックの屈折と倒錯について見通すことが出来るし、ゴシック小説の特殊性について理解する展望が開けるのである。アメリカ文学のゴシック性についての探求にとっても、それは有効な議論だと思う。
 さて、第8章は「ゴシックと煽情小説」で、再び本国イギリスの作家たちについての議論に戻るのであるが、もういいだろう。初めに、読むに値する一冊と評価したのに、批判ばかり書いてしまった。
(この項おわり)