読書ノートが二回にわたり挫折してしまい、恥ずかしく思っている。スーザン・ソンタグの『ラディカルな意志のスタイルズ』では、「ハノイで考えたこと」で躓いた。ベトナム戦争に反対していたソンタグが、作家としてハノイに招かれた時の紀行的エッセイである。ソンタグは最初、ベトナム人とアメリカ人である自分との間にある、大きな違和感を表明していて、なるほどと思うのだが、滞在しているうちにその違和感は克服されていく。結局ベトナムの社会主義に共感を示していくのだが、その間の心理の動きが未開人と遭遇した文化人類学者みたいで、『オリエンタリズム』のサイードだったらそこに差別を指摘するところだろう。だから書き続けるのをやめたのだった。
エドマンド・ウィルソンの『フィンランド駅へ』でも躓いた。ミシュレからサン・シモンなどの空想的社会主義へ、バクーニンからマルクスへ、マルクスからレーニンへと続いていくのだが、私にはマルクスやレーニンについて書くことなでできそうもないことに気がついた。ウィルソンはマルクスの理論についてかなり根源的な批判を行っていて、そのことについて書こうと思っていたのだが、挫折した。
また『フィンランド駅へ』はレーニンを主役とする思想・運動史であるが、レーニンについての情報がソ連当局によって操作されたものであることに、ウィルソン自身が気づいていて大幅な書き直しの必要を感じていたらしいが、そうなってはいない。操作された情報に基づいたレーニン論に何の価値があるというのだろうか。
話は変わるが、そんな挫折を感じていたその頃、自分がヨーロッパの古典をきちんと読んでいないことに気づくことがあった。私は大学でフランス文学を学んだのに、フローベールの『ボヴァリー夫人』を読んでいないし、プルーストの『失われた時を求めて』も読んでいない。そんなことでいいはずがない。
小説を中心にヨーロッパの古典をリストアップして、文庫本でいいから集めて読んでみようと決心し、光文社古典新訳文庫のリストに当たってみた。不思議なことに読みたいと思うのは、ほとんどフランスの小説ばかりであり、他の国の小説には食指が動かない。
仏文の面汚しとして学生時代には何故か日本の戦後文学ばかりを読んでいて、フランスの重要な小説を読んでいなかったのだ。これから先、多くの時間が残されているわけでもないので、主要なフランスの作品を読んでおこうということなのだ。
リストに挙がったのは、まずバルザックの代表作である『ゴリオ爺さん』『従妹ベット』など(若い時に買ってほったらかしになっている東京創元社版のバルザック全集がある)、フローベールはもちろん『ボヴァリー夫人』と光文社文庫で『三つの物語』、アベ・プレヴォの『マノン・レスコー』と、小説ではないがヴォルテールの『寛容論』も入れた。
ユゴーは今年に入って『ノートル=ダム・ド・パリ』を読んだばかりだし、スタンダールは『赤と黒』を二回読んでいるため、リストからはずした。他にも読むべき古典的名作はたくさんあるだろうが、一度には無理なのでとりあえずこの程度に抑えた。
もちろん18世紀の背徳小説、コデルロス・ド・ラクロの『危険な関係』も含めるべきであるが、この作品については「北方文学」にヘンリー・ジェイムズ論を書くために、先日参照的に読んだばかりであった。
まずリスト外のバルザック『絶対の探究』に取りかかることにした。バルザックはそれでも『あら皮』と『幻滅』は読んでいる。しかし、どちらもよく憶えていない。ただ、『あら皮』についてはバルザックを初めて読んで、これがバルザックという作家の世界なのかといたく感動した記憶があり、それ以来よい印象しか持っていない。
その割にバルザックを読まなかったのは、私がもっぱら異端の作家を好んできたためであって、19世紀の作家ならジェラル・ド・ネルヴァルやヴィリエ・ド・リラダン、ペトリュス・ボレル、ジョリス=カルル・ユイスマンスのような作家ばかりを読んできた。
しかし、彼らは大作家ではない。大作家の作品を読まなければ本当に古典を読んだことにはならない。では『絶対の探究』はどうだったのか。