玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ギュスターヴ・フローベール『三つの物語』(1)

2019年07月26日 | 読書ノート

 フローベールが『ボヴァリー夫人』のような、自然主義の元祖と目されるような小説しか書かなかった作家であるはずがない、という思いのもとに、私は光文社古典新訳文庫で『三つの物語』を読み、現在は『サランボオ』を読みつつある。その間にスタンダールの『パルムの僧院』も読んでいるから、古典探索の過程について書くべきことが溜まっているのだが、読む先から忘れていくから急がねばならない。

『三つの物語』は「素朴なひと」「聖ジュリアン伝」「ヘロディアス」の三編からなる大傑作である。「素朴なひと」は一度読んだら忘れられなくなるほどに、主人公の輪郭を際立たせているし、「ヘロディアス」は絢爛豪華、色彩感溢れる描写でサロメの物語を描き、同時代の画家ギュスターヴ・モローや後の作家オスカー・ワイルドにも影響を与え、サロメのイメージを確立した。それよりも私にはこの三編が、『ボヴァリー夫人』を書いた作家と同じ人物によって書かれたものであるということがほとんど信じがたい。

『ボヴァリー夫人』が1856年、著者35歳の作であり、『三つの物語』が1877年、著者56歳の作で、20年の時間差があるにしても、その作風はまったく違っていて、まるでフローベールという作家の中に二人の人物を見る思いがある。

 むしろそのことは『ボヴァリー夫人』の6年後に書かれた『サランボオ』について、より特徴的に言えることかもしれない。自然主義リアリズムの書『ボヴァリー夫人』が、現代(フローベールにとっての)をテーマとしていたのに対し、その直後に書かれた『サランボオ』は古代カルタゴ戦役をテーマとしているからである。なお『三つの物語』のうちの一編は中世の伝説を、もう一編は新約聖書を素材としている。

 自然主義文学が古代や新約の世界を舞台とすることに、何のメリットも見出さないことはエミール・ゾラのケースを観れば一目瞭然であろう。自然主義文学の分析対象はあくまで現代の人間や社会であって、懐旧的想像力などが力を発揮するような場所ではないからである。

『三つの物語』を〝懐旧的〟などと言ってしまうのは大きな誤りかも知れない。しかしフローベールが中世の伝説や新約聖書をテーマにするのは、明らかに現代よりも過去を、しかも中途半端な過去ではなく、神話や伝説がまだ生きていた過去の時代に対する彼の偏愛の故であろう。『サランボオ』についても同様のことが言える。

 それはフローベールという作家が、現代よりも古代に、遠い過去の時代に「醜悪で卑俗な環境」とは正反対なものを見ていたからであろう。これをロマンティックと言わずして、なんと言うことができるであろうか。

 ところで私は『三つの物語』の中の「聖ジュリアン伝」と「ヘロディアス」について、今は何も語ることができない。今読んでいる『サランボオ』を終えるまでは、彼の古代愛好について何も言えない気がするのだ。したがって私は「素朴なひと」についてだけ今は書いておくことにしよう。

「素朴なひと」というタイトルについては違和感がある。原題はUn Cœur Simpleで普通に訳せば〝素朴な心〟であり、これまでは〝純な心〟のようなタイトルで親しまれてきた。新訳文庫であるからといって、タイトルまでこれまでのものと変えてしまう必要もないと思うのだが、いかがだろう。

「素朴なひと」は本当の庶民、無学文盲で、上流社会の召使いとして生きるしかなく、しかもそれを自分の務めと思っているフェリシテを主人公にした感動的な物語である。

 まず私はこの小説の文章に注目せざるを得なかった。フローベールは小説において、文章の完成度を徹底的に追求した人で、そのために生涯にわたる作品数は異常に少ない。とりわけこの『三つの物語』はフランスの教科書にも取り上げられるほどの名文で、いわゆる彫琢の文章であるという。

 そのことが翻訳を通しても感じられるのである。たとえばフェリシテが主人のオーバン夫人の娘ヴィルジニーの初聖体拝領に立ち会う場面がある。

「ヴィルジニーの番がきたとき、フェリシテは、よく見ようとして、身をのり出した。そして、まことのいとおしみだけが授ける想像力によって、自分自身がヴィルジニーになっているかのように感じていた。ヴィルジニーの顔が自分の顔になり、ヴィルジニーの衣装が自分の体を包み、ヴィルジニーの高鳴る心臓が自分のうちで鼓動していた。瞼が閉じられ、ついに口が開かれようとしたその瞬間、フェリシテは気を失いかけた。」

 原文は以下。

Quand ce fut le tour de Virginie, Félicité se pencha pour la voir ; et, avec l’imagination que donnent les vraies tendresses, il lui sembla qu’elle était elle-même cette enfant ; sa figure devenait la sienne, sa robe l’habillait, son cœur lui battait dans la poitrine ; au moment d’ouvrir la bouche, en fermant les paupières, elle manqua s’évanouir.

私でも理解できる平易なフランス語で、まったく曖昧さのない簡潔極まりない表現であり、余計な装飾もいっさいない。にもかかわらずすべてを言い尽くして、余剰がない。他の部分でもこれぞ名文というのが、翻訳を通して伝わってくるのである。

 ギュスターヴ・フローベール『三つの物語』(2018、光文社古典新訳文庫)谷口亜沙子訳