一方『ボヴァリー夫人』の登場人物達は、どれも受け身で運命に翻弄されることに甘んじている。懸命に生きていないのである。シャルルとレオンの優柔不断と愚鈍については前回指摘したが、エンマはどうかと言えば、いつも場当たり的に逃げ回るだけで、破局を一寸伸ばしにしているだけである。だから破局が訪れる時には、それは致命的なものになってしまう。
『従妹ベット』の登場人物達はどんな苦境に立たされても、自分で道を切り開いていくし、自ら命を絶ったりしない。また彼らには政治的な能力があって、ずるいことでも何でもするが、それがいいことか悪いことかは別として、そういう人間を描くことができたのがバルザックという作家であった。
つまり、バルザックは政治的なものに対する想像力を備えていたが、フローベールにはそれがないということを指摘できる。あるいはバルザックよりも少し前の作家、スタンダールと比較すればフローベールの政治的なものに対する想像力の欠如は、際立ったものになるだろう。
スタンダールの『パルムの僧院』は恋愛小説であると同時に政治小説でもある。主人公ファブリスは政治力をまったく欠いた純粋無垢な青年であるが、副主人公サンセヴェリナ公爵夫人は、男まさりの政治力を発揮してファブリスを苦境から救い出すだろう。
『ボヴァリー夫人』にはそのような人物は一人も登場しない。金貸しルウルウも、薬剤師オメーも、悪辣で姑息、ずるがしこいだけで、高度の政治力を行使できるような人物ではない。フローベールがルウルウやオメーのような戯画的な人物しか創造できなかったことは、彼の政治的想像力の欠如を示しているに違いないのだ。
しかし、フローベールは『ボヴァリー夫人』によってのみ評価されるべき作家ではない。友人達に馬鹿にされた『聖アントニウスの誘惑』という作品で、幻想的想像力を駆使した作家でもあったし、『三つの物語』の「純な心」におけるように、一人の平凡な人物を熱い共感を込めて極めて魅力的に描くことができた作家でもあった。だから私は『三つの物語』や『聖アントニウスの誘惑』を読む必要を感じている。
予想できることは、フローベールが決してモーパッサンやゾラの先駆者として自然主義的リアリズムの作家として限定されるわけではないということであろう。フローベールのスケールはそんなところに収まらないことを私は予測しておきたいと思う。
ところで『ボヴァリー夫人』の中で決して忘れられない場面がひとつある。それは第1部第8章の商工農業共進会の場面である。ボヴァリー夫妻が住むこの村にとってのはれの日、県参事官が聴衆に向かって堅苦しい演説を行う中で、ロドルフがエンマを口説くのである。
この場面参事官リウヴァンの演説と、好色漢ロドルフがエンマに言い寄る甘い言葉が交互に何度も繰り返される。人間にとってもっとも形式的で公的な場面と、色事という人間にとってもっとも私的で秘められた場面が、これ見よがしに対置されて執拗に繰り返されるのだ。
さらに、共進会は山場を迎えて、優秀な農業者に対して表彰が行われるのだが、この場面になると表彰の文言とロドルフとエンマの睦言とが、短いパッセージで鋭く交差し、クライマックスに至る。ついにロドルフとエンマは情欲に燃え上がり、指と指とを絡ませあうのである。
このまるで20世紀の映画の一場面を見るようなコントラストに満ちた描写は、いかにフローベールという作家が時代に先駆けていたかということを如実に物語るものである。私はこの場面だけでもそこにフローベールの天才を認めることを否定しない。
では、フローベールの汚名挽回のために、他の作品も読んでみることにしようではないか。
(この項おわり)