この間にバルザックの『「絶対」の探求』を読み、次にフローベール『ボヴァリー夫人』、続いてバルザック『ゴリオ爺さん』、プレヴォ『マノン・レスコー』、そしてまたバルザック『従妹ベット』、フローベール『三つの物語』と読んできた。
一作ずつについて詳しく書くつもりはなく、私が読まずに通り過ぎてきた一八・一九世紀フランスの古典的小説の世界を味わってみようという気持ちであった。だからひとつひとつの作品について長く書くことも、分析的に書くこともできないが、とにかく先入観に囚われずに正直に書いてみようと思う。名作についてはとかく世評が読み方に影響を与えるものであるから。
まず『「絶対」の探求』の出だしの部分、舞台となるフランドル地方、ドゥエーの風物の長々しい描写と説明、さらには主人公バルタザール・クラウスの家系についてのこれも長々しい説明、そしてクラース家の建物の微に入り細を穿った描写を読まされて、いつになったら小説が始まるのかと、いらいらさせられることは必定である。
とにかく五十歳そこそこで亡くなるまでに九十編もの小説群からなる『人間喜劇』をはじめ、超人的な量の作品を残した人だから、描写と説明を長くして量を膨らませるのが常套手段だったのかと思ってしまうが、彼の社会研究のためには必要な作業であったのだろう。この部分が無駄だということは言えない。
描写や説明はリアリズム小説の要諦であり、バルザックはフランス・リアリズム小説の元祖のような作家だから、こうした長い描写や説明が不可欠なのだと言うこともできる。しかし、描写や説明は必ずしもリアリズム小説にとっての要諦に留まるものではない。
たとえばフランス・ロマン主義の作家テオフィル・ゴーティエの『ミイラ物語』などを読むと、エジプトの墳墓内部の微細な描写が延々と続く部分があるが、ゴーティエの『ミイラ物語』をリアリズム小説と呼ぶことはとうていできない。
『ミイラ物語』は幻想小説のジャンルに入るだろうが、幻想小説もまたリアリズム小説に劣らず、長大な描写や説明を必要とするのである。幻想小説にリアリズムは必要ないと思うのは大間違いで、幻想小説こそその超常現象にリアリティを与えなければ成り立たないのであるから、リアリズムに奉仕する描写や説明は不可欠のものとなる。
バルザック自身も幻想小説を書いているし、必ずしもリアリズム小説のみによってバルザックを計測することはできない。『「絶対」の探求』はもちろん幻想小説ではないが、この度を超えた描写と説明は、バルタザールの狂気を引き立たせるための背景描写のようなものと考えるべきだろう。
もちろんゴーティエの『ミイラ物語』の描写は、現実にはあり得ない墓内部の装飾や彫像、宝飾品などに関わっていて、それ自体が幻想小説としての〈目的〉となっている。一方バルザックの描写は小説を駆動させるための準備作業のようなもので、それ自体は目的ではない。
この長大な準備作業を、バルザックをこよなく愛した作家ヘンリー・ジェイムズのそれと比べてみるのも面白いだろう。ヘンリー・ジェイムズもまた、一体いつになったら小説が始まるのだろうと読者をいらいらさせることにかけては、バルザックに負けてはいない。
しかし決定的に違っているのは、バルザックがもっぱら登場人物たちの外部の事象について描写を繰り返すのに対して、ヘンリー・ジェイムズの場合には登場人物たちの内部に立ち入った描写を延々と続けていくというところにある。バルザックの描写が典型的な第三人称で書かれているのに対して、ジェイムズのそれは登場人物の視点から第一人称的な書かれかたをしているのである。
一九世紀リアリズムと二〇世紀リアリズムの本質的な違いが、バルザックとジェイムズの描写の中に顕然化しているのだと言ってもよい。
オノレ・ド・バルザック『「絶対」の探求』(1973、東京創元社「バルザック全集」第6巻)水野亮訳