フローベールの私の中での再評価は後回しにして、一応読んだ順に次はバルザックの『ゴリオ爺さん』を取り上げる。この作品あたりはかつての世界文学全集の中に、『従妹ベット』などとともに必ず入れられていたから、バルザックの代表作のひとつと考えていいだろう。少なくとも世評はそうだということだ。
確かヘンリー・ジェイムズが言っていたことだと思うが、バルザックの作品には飛び抜けた高峰はないが、すべての作品が非常に高い連峰を形成しているという。バルザックの代表作としてどの作品を挙げるか苦労するのはそうした理由によっている。
今はとりあえず、いわゆる世評の高い作品を選択しておこうと思う。だから『ゴリオ爺さん』と『従妹ベット』が当面の目標となる。さて『ゴリオ爺さん』であるが、一体だれが主人公なのかよく分からないのが、最初の感想であった。
主人公は、二人の娘に冷たくあしらわれても、すべてを捧げ尽くして悔いないゴリオ爺さんなのか、それとも田舎からパリに出てきてこれから出世しようとの野心を漲らせるラスチニャックなのか、あるいはラスチニャックに悪魔のように寄り添う極悪人ヴォートランなのか。
このように主人公がはっきりしない小説の作り方は、『従妹ベット』でも同じことで、どう考えてもベット(リスベット)が主人公でないのは、ゴリオがそうでないのと同じことである。テーマも『「絶対」の探求』の様にひとつに絞られてはいない。『ゴリオ爺さん』のテーマは、ひとつにはゴリオの娘に対する絶対的奉仕であり、もうひとつにはラスチニャックのパリの上流社会に対する挑戦であると思う。
テーマが輻輳しているために、バルザックはこの小説に『幻滅』のような、直接にテーマを指し示す用語をタイトルとして使用することができなかったのだと思われる。だから『ゴリオ爺さん』も『従妹ベット』も主人公の名を付けたというよりは、重要人物の中から選んでとりあえず付けたタイトルという気がする。
バルザックに心酔していたヘンリー・ジェイムズにも、このように内容を喚起しない人名をタイトルにした作品がある。『カサマシマ公爵夫人』(1885)がそれである。誰が読んでもこの小説の主人公は、カサマシマ公爵夫人ではなくハイアシンス・ロビンソンである。小説はハイアシンスの出自とそこから来る革命運動に対する意識の分裂が、最後には主人公の自殺という悲劇をもたらすというドラマなのだから、タイトルを『ハイアシンス・ロビンソン』とした方がいいに決まっているのである。
だから、ヘンリー・ジェイムズが『カサマシマ公爵夫人』などというタイトルをつけたことに、たぶん深い意味などはない。バルザックのひそみに倣ったに過ぎないということはできる。主人公の周辺にいて、彼の意識に様々な影響を与えるだけの女性の名をタイトルにする本質的な理由はない。
また、ヘンリー・ジェイムズが『カサマシマ公爵夫人』のなかで、バルザックのいわゆる「人物再登場法」を使っていることもバルザックの真似を窺わせる要素の一つである。カサマシマ公爵夫人は他の作品にも登場していて、バルザックのラスチニャックやヴォートランの真似をしているのだ。
しかし、そんなことはどうでもよい。『ゴリオ爺さん』のことを言わなければならない。ゴリオもまた『「絶対」の探求』のバルタザール・クラウスや『従妹ベット』のユロ男爵のように〝行きすぎた〟人間である。ゴリオは二人の娘に嫌われているにも拘わらず、全財産を二人のために捧げ、自分は貧窮の生活に甘んじて暮らすことを厭わない。
バルタザール・クラウスの〝実験〟やユロ男爵の〝女狂い〟に比べて、ゴリオの狂気はどうなのかと言えば、はっきり言って弱い。あれほどに娘に嫌われ、冷たくあしらわれても、娘の財産的危機に際してはすべてを抛って支援するというような行動がいかにも本当らしくない。
なぜならそこに大きな見返りがないからである。バルタザール・クラウスの実験は一攫千金を狙ったものだし、ユロ男爵の女狂いは飽くなき欲望と快楽の追求なのであって、強烈な見返りがあるからこそ彼らは狂う。しかし、ゴリオは二人の娘に嫌われていて、どんなに奉仕しても愛されることはないということを知っている。にも拘わらず……という動機が弱い。だから読者の共感を呼ばないのである。
オノレ・ド・バルザック『ゴリオ爺さん』(1974、東京創元社「バルザック全集」第8巻)小西茂也訳