東北関東大震災による死者・行方不明者が二万八千人を超えると報道されている。それだけでも驚くべき数字だが、さらに行政としての機能を喪失していて、行方不明者の数さえ把握できない自治体があり、犠牲者の数はさらに増えると言われている。
先日、福島県浪江町からの避難者の方と話をした時に、その人は「町は津波で大きな被害を受け、行方不明者の捜索にも行けない状態で、マスコミのカメラも入らない」と悲痛な声をあげていた。浪江町は福島第一原発から十キロ圏内を含み、避難指示が出ているため、誰も立ち入ることができない。
あれからすでに二十日が経過しているが、福島原発の危機的な状況は続き、汚染は拡大するばかりである。海の汚染も進んでいて、犠牲者は今、どんな状態に置かれているのだろうと考えてしまう。
生きている人間に尊厳があるのと同様に、死者にも尊厳がある。だから、我々は死者を弔うため、体を拭き清め、死に装束を着せ、棺に納めて合掌し、通夜を行い、葬儀を営んで、死者に掌を合わせる。
死んでしまえば“もの”でしかないと言うかも知れないが、死者の尊厳は生きている人間にとってこそ必要不可欠なものなのだ。我々はそこで自分自身の生の尊厳を確認することができるからだ。死者は無駄に死ぬのではない。
しかし、原発から半径二十キロ圏内の犠牲者達は、捜索もされることなく、放置され、見捨てられ、放射線にさらされ、腐敗し、ボロ屑のように朽ちてゆく。朽ちて骨だけになっても、いつか発見されるならよいが、いつそこに立ち入ることができるようになるのか分からぬ限り、彼らの尊厳は失われ続ける。
涙を禁じ得ない。
先日、福島県浪江町からの避難者の方と話をした時に、その人は「町は津波で大きな被害を受け、行方不明者の捜索にも行けない状態で、マスコミのカメラも入らない」と悲痛な声をあげていた。浪江町は福島第一原発から十キロ圏内を含み、避難指示が出ているため、誰も立ち入ることができない。
あれからすでに二十日が経過しているが、福島原発の危機的な状況は続き、汚染は拡大するばかりである。海の汚染も進んでいて、犠牲者は今、どんな状態に置かれているのだろうと考えてしまう。
生きている人間に尊厳があるのと同様に、死者にも尊厳がある。だから、我々は死者を弔うため、体を拭き清め、死に装束を着せ、棺に納めて合掌し、通夜を行い、葬儀を営んで、死者に掌を合わせる。
死んでしまえば“もの”でしかないと言うかも知れないが、死者の尊厳は生きている人間にとってこそ必要不可欠なものなのだ。我々はそこで自分自身の生の尊厳を確認することができるからだ。死者は無駄に死ぬのではない。
しかし、原発から半径二十キロ圏内の犠牲者達は、捜索もされることなく、放置され、見捨てられ、放射線にさらされ、腐敗し、ボロ屑のように朽ちてゆく。朽ちて骨だけになっても、いつか発見されるならよいが、いつそこに立ち入ることができるようになるのか分からぬ限り、彼らの尊厳は失われ続ける。
涙を禁じ得ない。
(越後タイムス4月1日「週末点描」より)
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