玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ギュスターヴ・フローベール『ボヴァリー夫人』(1)

2019年07月12日 | 読書ノート

 今回のフランス18・19世紀古典探索の本命はこの作品、ギュスターヴ・フローベールの名作『ボヴァリー夫人』である。私は仏文を学んだにも拘わらず、この作品を読んでいなかったが、高校生時代に買った河出書房版「世界文学全集」を整理する時に、この作品だけは〝いつか読まなければならない作品〟として、売らずに保存してあったのだ。

 今回読んだのは伊吹武彦訳のこの本で、抱き合わせで杉捷夫訳、モーパッサンの『女の一生』が入っている。こちらの方は読んだ記憶があるが、その内容は全く記憶に残っていない。『ボヴァリー夫人』は自然主義文学の原点とも言われていて、私が読まずにきたのは私が自然主義を好きではないからである。だからエミール・ゾラもギ・ド・モーパッサンもほとんど読んだことがないし、読んでも忘れてしまっているのだ。

 で、『ボヴァリー夫人』はどうだったのかといえば、正直この作品がそれほどの名作とは思えないというのが、私が最初に抱いた感想であった。理由はいくつかある。第一に主人公エンマ・ボヴァリーに対して感情移入ができないということがある。フローベールが純粋に外側から、冷徹にこの主人公を描いているのだから当然だと言われるかも知れないが、それでいいのだろうか。

 エンマは農村の出身で、医師シャルル・ボヴァリーと結婚するが、たった一度だけ体験した舞踏会で貴族社会への強い興味を持ち、贅沢な生活に憧れ、夫に絶望し、二人の男との姦通に走る。その心理的必然性もそれほど感じられないし、破産に追い込まれて自殺するという結末も〝当然の報いだろう〟としか思えない。

 フローベールの書き方もあるだろうが、エンマ・ボヴァリーという主人公は、読者に共感をもたらさないのである。また主人公だけでなく、夫のシャルルも、愛人のロドルフとレオンも魅力に欠けている。とくに悪役の金貸しルウルウの描き方は完全に戯画化されていて、生きた人間の匂いがまったくしない。

 だから私が『ボヴァリー夫人』をそれほどの傑作と思わない第二の理由は、登場人物達が作品の中で生きていないということに尽きる。とくに夫のシャルルと愛人のレオンの優柔不断や、判断力の欠如には目を覆わんばかりのものがある。

 エンマの不倫と財産の蕩尽について、最後の最後までまったく気づくことのない夫などいるはずがないし、その不自然さをもってしてもこの作品を自然主義小説の嚆矢だなどとは言いたくないのだ。またレオンの優柔不断がエンマを自殺に追い込むのだとしても、ならばこの男の魅力が(エンマの心を動かすほどの魅力が)どこにあるのかという疑いを入れることも可能である。

 つまりエンマの愛とそれ故の破滅に必然性が感じられないのである。だから馬鹿な女にしか見えないのだし、そんな馬鹿な女の破滅を描いたフローベールの本気度を疑ってしまうのだ。

 私がこの後で読むことになったバルザックの『従妹ベット』と比べてみてもよい。フローベールが『ボヴァリー夫人』を書くきっかけを作ったのが、二人の友人ルイ・ブイユとマキシム・デュ・カンに「バルザックの『従妹ベット』のような卑俗な材料をとって、ごく自然な調子で書きたまえ」と唆されたことだったらしいから、この比較は有効である。

『従妹ベット』の扱うテーマは、男女の性愛であり、金であり、名誉欲であり、復讐心でありと多岐にわたるが、いずれも卑属極まりないものである。しかし、『従妹ベット』の登場人物達は懸命に生きているし、それぞれに魅力的である。

 いい女と思ったら、人妻であろうが何であろうが真っ直ぐにアタックする男達も、男達から金を搾り取るためならどんなことでもする高級娼婦のヴァレリーも、女を囲うための資金調達のためなら家族を破産させても悔いないユロ男爵もみな、一生懸命生きていて好感が持てるのである。

 ギュスターヴ・フローベール『ボヴァリー夫人』(1965、河出書房新社「世界文学全集」9)伊吹武彦訳


オノレ・ド・バルザック『「絶対」の探求』(2)

2019年07月10日 | 読書ノート

 ところでこの小説は主人公バルタザール・クラウスが、最愛の妻や子供達のことを一切顧みることなく、ダイアモンドを人工的に生成しようという実験にうつつを抜かして、財産を蕩尽する物語である。バルタザールは自身の破産、家族の破産にもめげることなく、一切を犠牲にして実験を続ける。

 お話はこのことに尽きていて、破産に瀕してどうやってお金をつくるか、あるいは献身的な妻ジョゼフィーヌがどうやって財産を守るかといった部分は、付随的な物語に過ぎない。まさか献身的な妻の美徳を賞讃するための小説ではあるまい。

 とにかくバルタザールの「絶対」の探求は狂気じみていて、留まるところを知らない。家族を犠牲にしてしまうことへの自責の念から、バルタザールは何度も実験から足を洗おうとするのだが、金ができさえすれば元の木阿弥である。

 この小説を読んでいて思い出すのはドストエフスキーの『賭博者』である。『賭博者』の主人公もまた、何度も反省を繰り返しながら賭博の泥沼にはまっていく。バルタザールの目的はもっと高尚なものだと言われるかも知れないが、決してそんなことはない。まったく賭博に溺れる人間と同一の人物像である。

 ただし賭博の場合には、ごく稀にではあれ勝って大金を手にすることがある。そのことがさらに賭博へののめり込みを深めていく。しかしバルタザールの実験は勝つことなど全くなく、敗北の連続である。それにも拘わらずバルタザールは「絶対」の探求に生涯を賭していく。

 だからドストエフスキーの『賭博者』よりも、バルザックのバルタザールの方が狂気が深い。バルタザールは勝利にこの上なく接近したと思いこむことはあっても、勝利することはないし、最後まで財産を蕩尽し続け、大金を手にすることなど一度もないのである。死の床でバルタザールはEUREKA!と叫ぶが、その時はもう手遅れである。

 確かにバルタザールの実験の価値を、あるいは人間としてのバルタザールの常識では測れない価値を理解しつつ、財産を守り抜く賢妻ジョゼフィーヌは立派であるかもしれないが、また読者としてはバルタザールに「早く実験なんかやめてしまえ!」と言いたくなる瞬間もあるかもしれないが、最終的な共感はジョゼフィーヌではなく、バルタザールに向かうのである。

 バルザックの仕掛けは完璧で、なおかつ執拗極まりない。ジョゼフィーヌの死後にも、ちゃんと長女マルグリットを残しておいて、父バルタザールの庇護者としているところなど、これでもかというくらいに徹底している。結局、ジョゼフィーヌもマルグリットもバルタザールの理解者なのであって、読者もまた彼の度を超えた探求への共感を強いられるのである。

 また失敗に次ぐ失敗の中で、それでも次から次へと資金を産み出していくその過程も、執拗に描かれていく。屋敷や農園を抵当に入れ、家具調度を売り、宝石を売り、あらゆるものを売り払って資金を調達する(というか、実験で背負った借金の埋め合わせをする)。

 それもみなダイアモンドを化学的に生成して大金を得るためなのだが、しまいにはそんな目的が目に見えなくなっていって、ひたすらな探求と蕩尽の過程しか見えなくなってしまう。バルザックが描きたかったのはそれ以外のものではない。

 リアリズム文学の19世紀における代表のように言われるバルザックも、このような行き過ぎた情熱に囚われた人間をたくさん描いていて、そこは彼のロマンティックな部分とも言われるが、むしろバルザックのロマンティシズムがリアリズム的な技法を必要としたのだと言えないこともない。いずれにせよバルザックを単にリアリズムの作家と呼ぶことには無理がある。

 バルザックは『従妹ベット』において、バルタザールの血縁とも言うべきユロ男爵を登場させ、彼に「絶対」の探求ならぬ女性への探求と、財産の蕩尽を行わせている。ユロ男爵もまた手の付けられないほどの求道者であって、対象がダイアモンドではなく女色であるという違いしかない。

『従妹ベット』はしかし、複雑に人間模様が絡み合っていて、探求と蕩尽のテーマが純粋に追究されているとは言い難い。テーマの純粋さにおいて『「絶対」の探求』に勝る作品はおそらくない。

(この項おわり)


オノレ・ド・バルザック『「絶対」の探求』(1)

2019年07月09日 | 読書ノート

 この間にバルザックの『「絶対」の探求』を読み、次にフローベール『ボヴァリー夫人』、続いてバルザック『ゴリオ爺さん』、プレヴォ『マノン・レスコー』、そしてまたバルザック『従妹ベット』、フローベール『三つの物語』と読んできた。

 一作ずつについて詳しく書くつもりはなく、私が読まずに通り過ぎてきた一八・一九世紀フランスの古典的小説の世界を味わってみようという気持ちであった。だからひとつひとつの作品について長く書くことも、分析的に書くこともできないが、とにかく先入観に囚われずに正直に書いてみようと思う。名作についてはとかく世評が読み方に影響を与えるものであるから。

 まず『「絶対」の探求』の出だしの部分、舞台となるフランドル地方、ドゥエーの風物の長々しい描写と説明、さらには主人公バルタザール・クラウスの家系についてのこれも長々しい説明、そしてクラース家の建物の微に入り細を穿った描写を読まされて、いつになったら小説が始まるのかと、いらいらさせられることは必定である。

 とにかく五十歳そこそこで亡くなるまでに九十編もの小説群からなる『人間喜劇』をはじめ、超人的な量の作品を残した人だから、描写と説明を長くして量を膨らませるのが常套手段だったのかと思ってしまうが、彼の社会研究のためには必要な作業であったのだろう。この部分が無駄だということは言えない。

 描写や説明はリアリズム小説の要諦であり、バルザックはフランス・リアリズム小説の元祖のような作家だから、こうした長い描写や説明が不可欠なのだと言うこともできる。しかし、描写や説明は必ずしもリアリズム小説にとっての要諦に留まるものではない。

 たとえばフランス・ロマン主義の作家テオフィル・ゴーティエの『ミイラ物語』などを読むと、エジプトの墳墓内部の微細な描写が延々と続く部分があるが、ゴーティエの『ミイラ物語』をリアリズム小説と呼ぶことはとうていできない。

『ミイラ物語』は幻想小説のジャンルに入るだろうが、幻想小説もまたリアリズム小説に劣らず、長大な描写や説明を必要とするのである。幻想小説にリアリズムは必要ないと思うのは大間違いで、幻想小説こそその超常現象にリアリティを与えなければ成り立たないのであるから、リアリズムに奉仕する描写や説明は不可欠のものとなる。

 バルザック自身も幻想小説を書いているし、必ずしもリアリズム小説のみによってバルザックを計測することはできない。『「絶対」の探求』はもちろん幻想小説ではないが、この度を超えた描写と説明は、バルタザールの狂気を引き立たせるための背景描写のようなものと考えるべきだろう。

 もちろんゴーティエの『ミイラ物語』の描写は、現実にはあり得ない墓内部の装飾や彫像、宝飾品などに関わっていて、それ自体が幻想小説としての〈目的〉となっている。一方バルザックの描写は小説を駆動させるための準備作業のようなもので、それ自体は目的ではない。

 この長大な準備作業を、バルザックをこよなく愛した作家ヘンリー・ジェイムズのそれと比べてみるのも面白いだろう。ヘンリー・ジェイムズもまた、一体いつになったら小説が始まるのだろうと読者をいらいらさせることにかけては、バルザックに負けてはいない。

 しかし決定的に違っているのは、バルザックがもっぱら登場人物たちの外部の事象について描写を繰り返すのに対して、ヘンリー・ジェイムズの場合には登場人物たちの内部に立ち入った描写を延々と続けていくというところにある。バルザックの描写が典型的な第三人称で書かれているのに対して、ジェイムズのそれは登場人物の視点から第一人称的な書かれかたをしているのである。

 一九世紀リアリズムと二〇世紀リアリズムの本質的な違いが、バルザックとジェイムズの描写の中に顕然化しているのだと言ってもよい。

オノレ・ド・バルザック『「絶対」の探求』(1973、東京創元社「バルザック全集」第6巻)水野亮訳


古典に挑戦

2019年07月05日 | 読書ノート

 読書ノートが二回にわたり挫折してしまい、恥ずかしく思っている。スーザン・ソンタグの『ラディカルな意志のスタイルズ』では、「ハノイで考えたこと」で躓いた。ベトナム戦争に反対していたソンタグが、作家としてハノイに招かれた時の紀行的エッセイである。ソンタグは最初、ベトナム人とアメリカ人である自分との間にある、大きな違和感を表明していて、なるほどと思うのだが、滞在しているうちにその違和感は克服されていく。結局ベトナムの社会主義に共感を示していくのだが、その間の心理の動きが未開人と遭遇した文化人類学者みたいで、『オリエンタリズム』のサイードだったらそこに差別を指摘するところだろう。だから書き続けるのをやめたのだった。

 エドマンド・ウィルソンの『フィンランド駅へ』でも躓いた。ミシュレからサン・シモンなどの空想的社会主義へ、バクーニンからマルクスへ、マルクスからレーニンへと続いていくのだが、私にはマルクスやレーニンについて書くことなでできそうもないことに気がついた。ウィルソンはマルクスの理論についてかなり根源的な批判を行っていて、そのことについて書こうと思っていたのだが、挫折した。

 また『フィンランド駅へ』はレーニンを主役とする思想・運動史であるが、レーニンについての情報がソ連当局によって操作されたものであることに、ウィルソン自身が気づいていて大幅な書き直しの必要を感じていたらしいが、そうなってはいない。操作された情報に基づいたレーニン論に何の価値があるというのだろうか。

 話は変わるが、そんな挫折を感じていたその頃、自分がヨーロッパの古典をきちんと読んでいないことに気づくことがあった。私は大学でフランス文学を学んだのに、フローベールの『ボヴァリー夫人』を読んでいないし、プルーストの『失われた時を求めて』も読んでいない。そんなことでいいはずがない。

 小説を中心にヨーロッパの古典をリストアップして、文庫本でいいから集めて読んでみようと決心し、光文社古典新訳文庫のリストに当たってみた。不思議なことに読みたいと思うのは、ほとんどフランスの小説ばかりであり、他の国の小説には食指が動かない。

 仏文の面汚しとして学生時代には何故か日本の戦後文学ばかりを読んでいて、フランスの重要な小説を読んでいなかったのだ。これから先、多くの時間が残されているわけでもないので、主要なフランスの作品を読んでおこうということなのだ。

 リストに挙がったのは、まずバルザックの代表作である『ゴリオ爺さん』『従妹ベット』など(若い時に買ってほったらかしになっている東京創元社版のバルザック全集がある)、フローベールはもちろん『ボヴァリー夫人』と光文社文庫で『三つの物語』、アベ・プレヴォの『マノン・レスコー』と、小説ではないがヴォルテールの『寛容論』も入れた。

 ユゴーは今年に入って『ノートル=ダム・ド・パリ』を読んだばかりだし、スタンダールは『赤と黒』を二回読んでいるため、リストからはずした。他にも読むべき古典的名作はたくさんあるだろうが、一度には無理なのでとりあえずこの程度に抑えた。

 もちろん18世紀の背徳小説、コデルロス・ド・ラクロの『危険な関係』も含めるべきであるが、この作品については「北方文学」にヘンリー・ジェイムズ論を書くために、先日参照的に読んだばかりであった。

 まずリスト外のバルザック『絶対の探究』に取りかかることにした。バルザックはそれでも『あら皮』と『幻滅』は読んでいる。しかし、どちらもよく憶えていない。ただ、『あら皮』についてはバルザックを初めて読んで、これがバルザックという作家の世界なのかといたく感動した記憶があり、それ以来よい印象しか持っていない。

 その割にバルザックを読まなかったのは、私がもっぱら異端の作家を好んできたためであって、19世紀の作家ならジェラル・ド・ネルヴァルやヴィリエ・ド・リラダン、ペトリュス・ボレル、ジョリス=カルル・ユイスマンスのような作家ばかりを読んできた。

 しかし、彼らは大作家ではない。大作家の作品を読まなければ本当に古典を読んだことにはならない。では『絶対の探究』はどうだったのか。

 

 


「北方文学」79号発刊

2019年07月04日 | 玄文社

「北方文学」79号が発行になりましたので、ご紹介します。今号も先号に引き続いて100頁台に落ち着いています。総ページ数は195です。

巻頭にH氏賞受賞詩人・田原さんの寄稿をいただきました。「詩歌の地図」という重厚な作品です。シリアの詩人でノーベル文学賞候補を噂されたこともあるアドニス氏に捧げられています。アドニス氏は現在パリに亡命して暮らしているそうですが、そのことが故国中国を離れて日本で暮らし、日本語で詩を書き続ける田原さんの共感を呼んでいます。シリアの政治状況と中国の政治状況とが重ね合わせになっているようで、それが我々読者の共感を呼び起こします。「言葉はあなたの領土/詩歌はあなたの古里/想像はあなたの翼/哲学はあなたの沈黙」という一節が印象に残ります。

 続いて、館路子の詩が二編。「書き尽くせない日乗へ、追記」は短く、次の「月下、猫に倣って散歩する」はいつもの長詩で、どちらも猫をモチーフにした作品です。館は猫を大切に飼っているそうですから、それこそ書き尽くせない日常の一コマなのかも知れません。

大橋土百の俳句が続きます。「風の瞑想」と題して一挙59句を掲載。2017年から2019年にわたる二年間の思索の結実でしょうか。ふきのとうの写真を挿入していますが、この人の句は春が似合います。

評論のトップは前号に続いて徳間佳信の「泉鏡花、「水の女」の万華鏡(二)」です。今号から個々の作品論に入ります。まずは「沼夫人」。この作品に序破急の構成を見て、夢幻能としての性質を捉えようとしています。また明治期にはまだ珍しかった「恋愛小説」としての側面も見のがしていません。

次は柴野毅実の「ヘンリー・ジェイムズの知ったこと(二)」です。今号では初期の作品「ワシントン・スクエア」と中期の作品「ポイントンの蒐集品」を扱います。心理小説の基本的構造としての一対一の対決の中に、セクシュアリティへの根源的な追究を見ています。またジェイムズが打ち立てる「認識の至上権」は、「メイジーの知ったこと」へと回帰し、「聖なる泉」へと突き進んでいきます。

鎌田陵人の「201Q年の天使たち」は、日本のロックバンドThe Novembersの新譜「Angels」について論じたものです。音楽評論はたぶん鎌田しか書けないジャンルだと思います。The Novembersの歌詞と映画「ブレード・ランナー」とを文明論的に比較している部分もあり、サブカルチャーを文学的に語るという形式は、彼独自のものと言えます。

 鈴木良一の「新潟県戦後五十年詩誌史」の「隣人としての詩人たち」も13回目となります。70年代後半を扱う前編となります。この間に発行された「北方文学」10冊に対する言及にウエイトが置かれ、当時の同人で1978年に病死した栗林喜久男と1979年に自殺した中村龍介という二人の詩人を中心に論じています。当時県内では傑出した才能であった二人の墓標とも言うべき文章ではないでしょうか。

石黒志保の「和歌をめぐる二つの言語観について」は今回の(三)で完結です。仏教思想と和歌を通した言語論でしたが、日本中世の言語観は井筒俊彦の言うように、ヨーロッパの言語観に通じる本質的な部分を持っていたようです。専門的な論文ですが、多くの問題を提起したのではなかったかと思います。

 先号で大変面白い「史伝」と言うしかないような「文平、隠居」を書いた福原国郎は、先号の補正として「「暴吏」を挫く」とは」を載せています。古文書の解読を通して、これだけ生き生きと自らの先祖について語ることができるのは、大変得難い才能と言えます。

 以下小説が三本。まずは大長編の連載を終えたばかりの魚家明子の「緑の妖怪」。純粋な子供の世界を書かせたらこの人に敵う人はいません。子供の妖怪願望が大人の世界にまで広がっていくメルヘンのような作品です。

「かわのほとり」を書いている柳沢さうびは新しい同人です。早稲田大学文学部文芸科で小説を実践的に学んだ人で、さすがにプロまがいの筆力を見せています。処女懐胎のお話で、キリスト教神話のパロディかと思うのですが、ともかく一筋縄では捉えきれない作品で、短すぎるのが残念です。

最後は大ベテランの新村苑子「賜物」。不良の息子を殺された母親と父親の対照的な反応を描きます。会社人間として生きてきて、息子に死なれ、妻に逃げられた男の鬼気迫る末路は、世の男性に大きな反省を強いるのでは。

 

目次を以下に掲げます。

田 原*詩歌の地図

館 路子*書き尽くせない日乗へ、追記

館 路子*月下、猫に倣って散歩する

大橋土百*風の瞑想

徳間佳信*泉鏡花、「水の女」の万華鏡(二)

柴野毅実*ヘンリー・ジェイムズの知ったこと(二)

鎌田陵人*201Q年の天使たちーーTHE NOVEMBERS 『ANGELS』を聴くーー

鈴木良一*新潟県五十年詩史――隣人としての詩人たち(13)

石黒志保*和歌をめぐる二つの言語観について(三)

榎本宗俊*北越雪譜と苦海浄土

福原国郎*「暴吏を挫く」とはーー「文平、隠居」補正――

魚家明子*緑の妖怪

柳沢美幸*かわのほとり

新村苑子*賜物

 

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