警察官の発砲が報じられたが、お決まりの文言は無かった。
かっては、警察官の発砲が報道される場合には、最後に必ず「発砲の適法性」についての警察の見解や報道機関の意見の形で疑問符を付けてなされるのが定番であったが、近年ではそれらに触れることは殆ど無い様に思っている。
犯罪が多様化・劇場化・狂暴化するとともに警察官自体への襲撃も多発し、更には制止の言葉が通じない外国人の犯罪が引きも切らない現状では、警官が身を守りつつ犯人を制圧するためには銃器を使用せざるを得ないことが漸くに理解され始めたのではないだろうかと思っている。
また、終戦記念の日前後に靖国神社を参拝する閣僚に対して「公人としてですか私人としてですか」という質問が投げかけられるのも定番であったが、ここ2、3年この質問を投げかける映像を見かけることが無くなったし報道もされなくなったとも思っている。
自分は、警官の安全よりも犯人の生命を優先するかのような報道や、政治家(公人)の私的側面を云々する一方で靖国参拝には中韓に阿るかのように公・私人の別を追及することを不快に思っていたので、近年の報道姿勢については漸くに正常になったと思っている。
報道の変質は何故に起きたのだろうかと考えれば、報道機関が自社独自の「報道コード(code)や理念を持たない」ためと考えても良いのではないだろうか。報道コードで警官の多少の犠牲よりも対象者(市民)の安全を最優先すべきとすれば「発砲の適法性」の質問・追及は譲れず、閣僚の靖国公的参拝を違法とするならば「公人としてですか私人としてですか」という質問は避けて通れぬように思える。
では、報道機関の取材・報道の基準は何だろうかと考えれば、「世論への迎合」を全ての基準としているのではないだろうか。世論が望むものを望むベクトルで報じることは、比較的に容易・安易であるとともに、報道の責任も世論に転化できる。好個の例は朝日新聞が行なった従軍慰安婦の強制連行報道である。入念に取材すれば嘘と分かる吉田清治氏の証言を「正」と報じたのは、事の真偽よりもスケープゴートを求める世論に迎合することを優先したためであり、20年間以上も垂れ流し続けた虚を僅か1回の訂正(記事取り消し)で済ましたのは、「読者がそう望んだから」という開き直りであったと思っている。
明治初期にあって新聞が、固陋制度の改革と開明思想の啓蒙に指導的・牽引的な役割を果たしたとされており、リアルタイムの映像が提供できるテレビは世論の形成に大きく影響するとされるが、現在のように新聞・テレビを始めとするメディアが挙って世論に忖度する以上に迎合するかのような姿勢は如何なものであろうか。
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