産経新聞の「正論」欄で、ある神学者の言行を知り感銘を受けた。
執筆者の新保祐司氏によると《スイス人で20世紀最高の神学者とされるカール・バルトは、1940年に54歳・大学教授であったが自ら志願して予備役防衛軍兵士として軍務についた。射撃訓練などを受けた後に、後方の事務職に就けようとする忖度を拒否して警備・立哨などの現場軍務に就いた》と紹介されている。感銘を受けたのは、彼の《おそらくそれほど有能で敵に脅威を与えるほどの兵士では無かったと思われるが、ともかくも武装し訓練を受けた兵士であった》という言葉である。
現在、我々は「人類誕生以来誰も無しえなかった武力と戦争を放棄して共同体(国家)を守る]という壮大な実験の被験者となっている。現実の脅威を前に自衛隊と云う鬼子の軍事組織は保有しているものの、それすら軽武装で十分とする意見は少なくないし、そう主張する人の多くが「何かあれば日本を守るために戦う」というのを専らとするがカール・バルト氏のように地位と名誉の全てを捨てて実際に銃を執れる人は如何ほど居るだろうか。自分自身をとっても、64小銃経験という錆びた知識と身体では「敵に脅威を与えるほどの兵士にはなれない」ことを自覚しているために、高齢を理由に後方勤務を与えられることを喜ぶだろうし、眼前を行軍する侵略者に発砲する気概を持っているだろうかと自問せざるを得ない。
トム・クランシーは著作で、ショッピングモール襲撃のテロリストを倒したライアン・jrが、臨終のイスラム者に”豚皮製のアメフト・ボールを抱かせる”場面を描いている。
不幸にして日本に対する武力攻撃があった場合、開戦劈頭のミサイル攻撃を受けて息も絶え絶えに路上に横たわる自分に対し、上陸・進駐してきた侵略者は「日本国憲法の冊子」を抱かせるだろうが、そこには侮蔑の笑みはあっても「壮大な実験に殉じた聖者」と云う尊敬は無いであろうことは確実と思う。
ウクライナ事変が現在進行形で示されている終戦の日、戦争と日本国憲法を考えた人は多いと思うが、カール・バルトの逸話も併せて考えて欲しいように思った。
ここまで書いて、重大な要因を忘れていることに気がついた。それは、護憲論が日本国憲法前文に掲げられている「平和を愛する諸国民の公正と信義」を世界共通の概念と信じることを前提としていることである。そうであるから、侵略者プーチン大統領も国内刑法犯と同じ「敵ではなく、単に罪を憎んで人を憎んではならないハラカラ(同胞)」に過ぎず、敵と云う概念は無いもしくは持ってはならないのだろうか。
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