もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

立民中川正春議員の憲法観を学ぶ

2023年07月24日 | 憲法

 衆院憲法審査会の野党筆頭幹事である中川正春議員のインタビュー記事を読んだ。

 立民は憲法審査会の議論で維新や国民の後塵を拝し、強固に護憲を主張していた東大法学士の奥野總一郎議員(憲法審査会幹事)も現憲法には改正すべき点があると認めるなど、護憲姿勢堅持にも暗雲ただならぬように思える。
 この状況にあって野党筆頭幹事の中川議員が、何と主張するのかと興味を持って読んだが従来の主張の繰り返しで残念に思った。
 特に残念に思えたのは、緊急条項としての議員の任期延長問題である。中川議員は《大事なことは、どのような状況下にあっても選挙を実施できる態勢を整えることだ》と述べているが、何やら聞きなれたフレーズである。そう《自衛力の拡充整備よりも重要なのは、そのような事態を起こさせなようにすることだ》と同じ論旨である。起きる可能性は極めて低いものの、それが起きた場合でも国家機能を維持するために六法は整備されると思っているが、中川議員にあっては如何なる状況下でも選挙を実施できる秘策をお持ちなのだろうか。
 東日本大震災では何とか総選挙ができたものの、それ以上の広範囲の大規模災害で更に多くの人が死傷し、更に多くの人が住民登録地を離れて疎開した場合、政府・自治体は避難民の安全確保に全力を傾けるだろうが、そんな中にあっても有権者の所在を突き止めて入場券を配布する等の投票手続き・選挙事務ができる態勢とは何だろうか・あるのだろうかと疑問に思える。
 多分、中川氏の脳裏には、立民の公式見解である「そうなった場合には国会法を改正し・・・」という答えが準備されているのだろうが、上位の憲法規定を下位の法律で否定するという法治国家とは呼べない荒療治、その場凌ぎが許されるものだろうか。それが許されるならば、憲法の否定した『国の交戦権』『武力保持』すら自衛隊法の改正で可能になり、護憲派の1丁目1番地である9条堅持など霧散霧消してしまう。

 充分に予測可能な事態、国政に参画する者は当然に考察・準備しなければならない事象にも、『そうならない様にする』と理想・空論を以て議論を打ち切り、対処方策の議論にまで進ませない・応じない姿勢を世情では「お花畑」と評するが、中川議員もお花畑の有力者に相応しく思える。
 立民の退潮は、泉代表の求心力や選挙戦術によるものではなく、空論を掲げて重要な議論を回避する「お花畑姿勢」であると思うが、如何だろうか?


八重山毎日新聞の社説に思う

2023年07月23日 | 報道

 八重山毎日新聞の社説が波紋を広げている。

 事の顛末は、同新聞が社説で《自衛隊員と家族は人口に含まずに公表すべきではないか。そんな意見があってもおかしくない》と述べたものの、批判を受けて謝罪したというものである。
 未だに前時代的な主張がなされることにも驚いたが、それ以上に驚いたのは、引用記事中に赤太で表記した個所である。
 社説とは、新聞社の主張であり紙面全体の編集・記事の根底を成すものであると思うので、そのように他者の意見を借りる形で責任を逃れるべきでは無い様に思う。書くとすれば、《自衛隊員と家族は人口に含まずに公表すべきである》と新聞社(主筆)の意見を主張すべきではないだろうか。閑話休題
 記者が取材対象に質問する場面が放映されることが多いが、記者が「一部には○○のような意見もありますが・・・」と他人の意見を借りる形で質問する場面が多い。そのたびに自分は、”誰がそう主張するのだろうか”、”本当にそういう主張があるのだろうか”、”記者の個人的意見では”と常々疑問に思っている。かって石原慎太郎(当時東京都知事)氏の囲み取材で、同様の問いかけをした記者に石原氏が「誰が?」と問いかける場面を見たが、記者は「いえ、一般論で」と不得要領の答えをしていた。
 何故に記者は「自分は○○と考えますが」とか「××社の世論調査では○○ですが」と前提を明らかにして質問しないのだろうか。
 メディアの取材や編集に暗いので憶測の域を出ないが、日本のメディアには、「記者に害が及ばないように一般論として取材」したものを「責任が曖昧な編集で色付けする」ことが常態化しているのではないだろうか。
 近年は聊かに改善されたようであるが、日本の報道には署名記事が極めて少ないと聞いたことがある。ウオーターゲート疑惑を明るみにし、ニクソンを辞任にまで追い込んだ取材記者は、疑惑が疑惑で終わった場合にはメディアでの居場所を失うとともに社会的にも抹殺されるであろう危険を冒してでも署名記事で報じ続けた。

 八重山毎日新聞の社説では、《自衛隊員と家族は人口に含まずに公表すべきである》とすれば、主張の是非はともかく社説としては成立したであろうと思うし、批判に対しても毅然と対応できたであろう。
 「この程度ならウケル・許されるだろう」「書いてしまってゴメンナサイ」で済ませる八重山毎日新聞社は、社説と云う重みを理解されていないのだろうし、ジャーナリストとしても未熟の誹りを免れないように思う。


改めて立民の軍事音痴を知る

2023年07月22日 | 野党

 立民泉代表の記者会見での発言に同党の軍事音痴振りが如実に示されていると感じた。

 外交政策を問われた泉代表は、《(立民の)対話外交は「お花畑」みたいにとられるが、米国も(対話外交を)重視している》と述べたが、アメリカのみならず主要国で「対話外交」を軽視若しくは拒否している国は、ロシア・中国・北朝鮮くらいしか思いつかない。
 ロシアは防衛上の緩衝地帯を得るためにウクライナに武力侵攻・欧州へのエネルギー供給を制限・ウクライナ産穀物の流通を制限、中国は尖閣海域に軍事力を展開・有償経済援助で途上国を債務漬け・レアアースの輸出供給を制限し、北朝鮮は我意を主張するために対話よりもミサイルの発射に依っているが、そこには対話の欠片すら見当たらない。
 独立国家は、国連や2国間若しくは多国間の場で交渉(対話)を重ねて関係を正常に維持することに最大限の努力を図っている。一方で、他国からの無法な要求や武力恫喝を阻止するために相応な軍事力を保有している。この対話と軍事力が外交の双輪であることは常識であって、反撃・抑止のための軍事力を併せ持たない限り国家の外交は成り立たないと思っている。
 泉代表は、立民の掲げる「対話外交」の正当性を訴えるために「ではの守」手法で「アメリカも重視」と述べたのであろうが、軍事強国アメリカの対話重視外交と軍事力を等閑視した立民のそれは、全く「似て非」なるものであることを忘れているように思える。
 立民の云う「対話外交」を例えるならば「日本がサンドバッグ状態に曝されても、専守防衛の名の下に国民の被災にも目をつぶって無法者に対話を訴え続ける」ものであるように思う。立民と立民支持者は異口同音に「そうならないために対話する」と云うが、そうなった場合の対応については一様に口を閉ざし、更には、軍事を捨てても重視するという対話外交のためのビジョンにも口を閉ざすのを例としている。この状態を世情では「お花畑」と評するのであるが、泉代表は「なぜお花畑」と呼ばれるかを、一向に理解されていないように思える。

 維新が、政権の一画に名を連ねる若しくは野党第1党となった場合に備えて台湾とアメリカに議員を派遣して両国とのパイプ作りを目指していることに対して、立民は「議員の夏休み」と冷ややかに受け止めているとされるが、政権を握った場合の「対話外交」にどのような準備をされているのだろうか。よもや秋の臨時国会での政府攻撃のネタを探して週刊誌を読みふけっているとは思いたくないが、「対話外交」準備の一端でも有権者に示して欲しいものである。


上山下郷を知る

2023年07月20日 | 中国

 産経新聞に寄稿された石平氏の主張で「上山下郷(じょうさんかきょう)運動」とういう言葉を知った。

 自分は、中国が文革後に行った都市部の紅衛兵や知識人を農村・僻地に移住させて、肉体労働・政治教育を行ったことを「下放」と認識していたが、下放政策を正当化させるための素地として「上山下郷」のスローガンがあったようである。
 文化大革命(1966~1976年)では、制御できなくなった都市部紅衛兵を含む約1,600万人の中学卒業生が農村や辺境に下放されたとされ、1970年代後半には下放青年の都市への帰還(回城)が認められるようになったが、それでも結婚などの理由から数十万人が移住地にとどまった(取り残された)とされている。
 「上山下郷運動」・「下放政策」は、都市・農村間の労働力地均し以上に都市部の不満分子や知識人を追放・再教育して抵抗・反抗の芽を摘むという目的が大きいことは、クメールルージュを掲げたポル・ポトも毛沢東の下放政策をまねていることから明らかである。
 なぜ、今になって石平氏が上山下郷運動を取り上げているかと云えば、人民日報がソフトな表現ながら下放政策と異口同音の論文を掲載したことに依っている。人民日報は《若者は苦労を辞さない積極的な就業感を持って、郷村振興、社会奉仕、国境防備等の領域で尖兵を務めるべきだ》と述べて、暗に「都市部での花形職業への就職をあきらめて地方で何らかの職に就け」と云っていると石平氏は分析されている。
 石平氏によると、中国の都市部若年層(16~24歳)の失業率は公式発表では21.3%であるが、週に1時間以上の労働(アルバイト?)があれば有職者とカウントしているので、実際の失業者は公式発表を遥かに超えるようである。
 このような状況であれば、政府・共産党に対する不満は既に蓄積されているであろうから、反政府運動に暴発する前に何らかのガス抜きが必要とされることは十分に察せられる。
 国民のガス抜きで、最も手っ取り早いのは国民の目を外圧に向けさせることであるのは歴史が証明しているところであるが、そういう目で中国外交を観ると、殊更に「対米危機」、「日米韓の連携強化」・「台湾統一」、「福島の放出水」を言い立てているのは、国民の目を外圧に逸らそうという意図を含んだものと観るべきかも知れない。

 子女に高等教育を受けさせる経済的余裕が生まれたバブル期に蔓延した日本のカースト制度(学歴偏重)は、バブル崩壊・働き方改革とともに徐々に姿を変えつつあるものの、未だ第3次産業就労者が突出するという後遺症を残していることを考えると、人民日報の主張する「ソフトな上山下郷」は日本にこそ当て嵌められるべきものかも知れない。


韓国KBSの現状を知る

2023年07月18日 | 韓国

 韓国の尹錫悦政権が、韓国公営放送KBSの受信料徴収制度を変更したことを知った。

 KBSの受信料(月額270円)は電気料金に含めて徴収されているために徴収率も99%であるらしいが、今回の変更では受信料と電気料金を分離するとされている。新しいKBS受信料の契約・支払い方法などの詳細は報じられていないが、受信料収入が70%減少するとも観られていることを考えれば、電気料金請求書への受信料分離記載などではなく、NHK方式にも似た個別契約・個別徴収に移行するのではないだろうかと思っている。
 KBSについてはこれまで、政権が変わるたびに経営陣の入れ替わりが繰り返されて政権の御用放送と化してしまうため、不利益を被る野党は受信料(KBS)改革を叫ぶものの一転して与党に返り咲けば従来制度を擁護する以上に受信料の値上げなどで懐柔することが常態化していたらしい。
 尹錫悦大統領は、この悪弊を断ち切るとともに文政権下で左傾化した(し過ぎた)経営陣と社風を一新するためにKBSの解体にも等しい政策を断行したものであろうか。
 NHKが制作・放映した「緑なき島」は、軍艦島(端島)炭鉱における戦時中における坑内労働者の過酷な労働環境を取り上げたものであるが、実際の撮影は昭和30年代に別の炭鉱で行われるとともに端島炭鉱の環境とは懸け離れた「捏造・フェイク映像」であることが明らかとなっている。その「緑なき島」は現在でも徴用工問題の論拠・反日の根拠と位置付けられているが、発端はNHKがKBSに映像・放映権を売却したことであるとされていることを考えれば、NHKが行なった「緑なき島」の制作と韓国KBSへの売却には、商行為とは程遠い「何か」が介在していると思っている。
 NHKの「緑なき島」の取り扱いについては、吉田清治氏の慰安婦強制連行虚言を拡大流布して国連のクマラスワミ報告書にまで肥大化させた朝日新聞と同等の社会的責任を問われるものであるが、未だにNHKは真相究明に難色を示している。

 KBSは、「受信料徴収方式の変更は憲法が保障する放送の自由を侵害する」として変更の無効を憲法裁判所に提訴したと報じられているので、決着には更なる紆余曲折も予想される。
 しかしながら、同社の右派系労働組合が先の大統領選挙では4か月間に1100件の左傾報道があったと告発していることを思えば、KBSの主張する「放送の自由」は「虚偽・偏向放送の自由」と読み替えるものであるのかも知れない。