趣味と節約と時に妄想の記録

節約を通して未来を創造するブログです。
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今更のように尺の考察

2024年01月26日 23時12分22秒 | 自然観察日記的回想

今日はふと浮かんだ事をほんの少しだけ深堀しました。でもこの考察は、石垣とか、個性とか、個人の活かし方のヒントになるかもなぁ・・です。自分自身の活かし方もまだ見つけられないのに・・・。手前みそな考察です。

よろしければどうぞ

今更のように、尺って何を基準に決めたのかってフト思い浮かびました。

確かにこんな時はネットはとても便利です。 それで、「尺」について調べると、その基準は、「手を広げた時の親指の先から人差し指の先までの長さの2倍」とありました。その長さはおよそ15センチ。その倍ですから、おおよそ30㎝となります。メートル方では約30.303㎝になります。 さてさて、現代最も精巧な測定器で尺や寸を定義したらどうでしょう?

ハイ。現在は以下ですよ

1960年に開催された国際度量衡総会でメートル原器は廃止され、クリプトン86元素が真空中で発する橙色の波長を1mとすることが決められました。さらに1983年に再び開催された時には、レーザー技術の進歩により、光が真空中で299,792,458分の1秒間に進んだ距離を1mとすることが決められました。

メートル原器の基準も凄いのですけど、現在の国際基準は、すでに物理学の世界で表現されている。つまり、誤差が無いって事なのでしょうか。それ以前に、家庭で買える定規って何?という世界になってますね。

光が真空中で299,792,458分の1秒間に進んだ距離を1mとして、ホームセンターで買える1m物差しの誤差って?

その製品誤差が目でわかる訳無いですわな。

簡単なDIYでも、TVでおなじみの世田谷○○さんも、レーザー測量機で計ってますから、定規や物差し、巻き尺などでは、趣味の範囲の計測になるのでしょうかね?いやはや凄い時代です。

でも考え方を変えて、そんなレーザー測量機(製品名はレーザー距離計というらしい)の無かっただろう時代(もしかするともっと思いもつかないテクノロジーがあったのかも知れないけど)に建てられた建造物が未だに存在しているのは不思議としか言えないのではないでしょうかね。

例えば法隆寺の五重塔は1300年以上の歴史があるとかね。

おっと話がそれました。 現代最も精巧な測定器で尺や寸を定義したらどうでしょう?の答えは、「定義できない」というのが答えではないでしょうか。

なぜなら元々が、親指の先から人差し指の先までの長さですよ。たぶん原器というか、どなたかの長さを基準に決めたとは思いますが、その基準原器つまり金型みたいな物が、1300年以上前に存在していたとは思えないし(金属製のね)、仮に原器があったとしても、何度か複製(原器から作る型)を作る段階で誤差が生じたと推測されますしね。 そうなると大量に木製の建造物を作る際に、職人の数だけ、原器が必要になるわけで・・・て、何をくだらない妄想をしてるかって?

僕はその誤差こそが地震国日本での木造建築の安定性の確保につながるのでは?と妄想したりするのです。

その答えが、実は生物の世界にある。と個人的に考えています。

どの生物かって? ミツバチの巣ですよ、ハニカム構造ですよ。僕の頭の中では、いつも実態(物質)と非実態(非物質)が相互に絡んでいて上手く表現できないのですが・・・・

ミツバチがどうやってハニカム構造を作れるかの答えは、すでに過去記事で紹介した通りです。

「ミツバチは別に複雑な事をしているわけではない。単純に彼らの体に三角形の基準が埋め込まれているだけだと。そして、その基準を模した仮面をかぶり見事に黒板に六角形を描いたのです。
つまり生物は必要な雛形が、自らの体の中に備わっている。しかも、すべてが完全に正確ではありません。例えばミツバチのハニカム構造も、実は個性があり、中には歪な六角形も存在します。僕にはその理由もわかります。あえてここでは書きません。しかし、全体としてはハニカム構造の巣としては十分なわけです。」

そうなんです。「ミツバチは体に三角形の基準が埋め込まれている」」ここですよ、ここ。

複眼の構造もハニカム構造ですよ。

尺も、寸も、その基準が体に埋め込まれていたという部分に繋がるわけですね。

でも現実問題、人によって、手の大きさも、指と指の間の長さも、左程大きくは無いが誤差があります。建築の分野での基準に、あまりにも大きな誤差があっては具合が悪い。当たり前ですが。そこで、その人の向き不向きが発露するのではと考えられないでしょうか。

つまりその人の持っている個性とか、役割とかね。 確かに努力や教育で、今は様々な役割を演じる事が出来る時代にはなったと思いますが、やはり、生まれ持った体の中に、自分の役割が埋め込まれている。

それに気づくかどうか。そこが出発点では無いのかな? もしかするとそれが原点なのかも知れない。

科学技術の進歩に逆行するかも知れないけど、人間もやはり生物です。生物である以上は、その生物の本質の発露が人生のどこかで起きるのではと思います。

 

今回は、尺という基準で書いてきましたが、もしかすると無数に同じような事があるのかも知れませんよ。

空を見上げれば広大な宇宙が広がります。 でもね、神様は、宇宙を皆の体に埋め込んだのかも知れませんよ。

そして、生きている短い人生は、その一編をどこまで探求できるかを試しておられるのかも知れません。

毎回つたない記事ですが、読んで下さった方に感謝です。

そして大いなる大自然の恵みに感謝。


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