神戸市北区の前田幸治さん(62)が、自作の歌を送ってくださいました。添えてあった手紙に、苦難にみちた来し方がつづられていました。
<私は4歳で脊椎カリエスにかかり、15歳まで病院で寝たきりでした。その間は学校教育を受けられませんでした。難手術の末に容体は回復しましたが、後遺症で背中は曲がったままです>
退院後、前田さんは果敢に人生を切り開きます。20歳で特別支援学校(当時は養護学校)を卒業後、洋服の仕立てを学び、自宅で店を始めました。お父さんは前田さんが入院中に亡くなっていて、支えはお母さん一人でした。
<15年程前、その立場が逆転しました。身体障害者の私が母の介護を始めました。肺炎から様々な病気を併発し、動けなくなりましたが、母は「ここで死ぬんや」と、入院も、介護サービスも拒否しました>
ずっと応援してくれたお母さんのために、前田さんは仕事をやめて付きっきりで面倒を見ました。2年後、お母さんは82歳で亡くなりました。
<独りぼっちになり、一周忌を終えた頃には、心身が悲鳴を上げ始めました。不眠になり、訳もなく胸の息苦しさを覚えました。やがて幻聴が始まり、病院で「うつ病」と診断されました>
過酷な出来事の連続で、読んでいる私まで苦しくなってきます。それでも、4年前に転機が来たのです。
介護サービスで足のリハビリに来てくれる30歳代の女性作業療法士さんと出会いました。笑顔につられ、これまでの人生を語ったら、作業療法士さんは「前田さんは人生の師匠です。私を一番弟子にしてください」と言いました。前田さんの気持ちに、さっと光が差しました。
<私を偏見なく受け入れ、ふさいでいた心の扉を開けてくれました。もしも普通の人生だったら、この出会いはなかった。看護師さん、介護士さんにも恵まれて、体調は回復基調です。「失うものあれば、得るものあり」。これが私の人生の教訓です。学校に行けなかったことは心残りですが、どうにか文字も書けます。新聞も読むことができます。耐え難い人生でしたが、今、私は、しあわせです>
なんと重い、「しあわせ」でしょうか――。
前田さんは、感謝をこめて歌を作りました。それが今回寄せていただいた作品です。タイトルは、作業療法士さんの愛称「マーちゃん」です。
<ご恩返しが出来なくて 気持ちだけですこの歌にして マーちゃんの マーちゃんの こころに届ける感謝状>
曲を付け、歌を録音したテープと歌詞と一緒に渡すと、作業療法士さんは目を潤ませ、「傑作ですね」と喜んでくれたそうです。(稲垣収一)
(2012年2月12日 読売新聞)
<私は4歳で脊椎カリエスにかかり、15歳まで病院で寝たきりでした。その間は学校教育を受けられませんでした。難手術の末に容体は回復しましたが、後遺症で背中は曲がったままです>
退院後、前田さんは果敢に人生を切り開きます。20歳で特別支援学校(当時は養護学校)を卒業後、洋服の仕立てを学び、自宅で店を始めました。お父さんは前田さんが入院中に亡くなっていて、支えはお母さん一人でした。
<15年程前、その立場が逆転しました。身体障害者の私が母の介護を始めました。肺炎から様々な病気を併発し、動けなくなりましたが、母は「ここで死ぬんや」と、入院も、介護サービスも拒否しました>
ずっと応援してくれたお母さんのために、前田さんは仕事をやめて付きっきりで面倒を見ました。2年後、お母さんは82歳で亡くなりました。
<独りぼっちになり、一周忌を終えた頃には、心身が悲鳴を上げ始めました。不眠になり、訳もなく胸の息苦しさを覚えました。やがて幻聴が始まり、病院で「うつ病」と診断されました>
過酷な出来事の連続で、読んでいる私まで苦しくなってきます。それでも、4年前に転機が来たのです。
介護サービスで足のリハビリに来てくれる30歳代の女性作業療法士さんと出会いました。笑顔につられ、これまでの人生を語ったら、作業療法士さんは「前田さんは人生の師匠です。私を一番弟子にしてください」と言いました。前田さんの気持ちに、さっと光が差しました。
<私を偏見なく受け入れ、ふさいでいた心の扉を開けてくれました。もしも普通の人生だったら、この出会いはなかった。看護師さん、介護士さんにも恵まれて、体調は回復基調です。「失うものあれば、得るものあり」。これが私の人生の教訓です。学校に行けなかったことは心残りですが、どうにか文字も書けます。新聞も読むことができます。耐え難い人生でしたが、今、私は、しあわせです>
なんと重い、「しあわせ」でしょうか――。
前田さんは、感謝をこめて歌を作りました。それが今回寄せていただいた作品です。タイトルは、作業療法士さんの愛称「マーちゃん」です。
<ご恩返しが出来なくて 気持ちだけですこの歌にして マーちゃんの マーちゃんの こころに届ける感謝状>
曲を付け、歌を録音したテープと歌詞と一緒に渡すと、作業療法士さんは目を潤ませ、「傑作ですね」と喜んでくれたそうです。(稲垣収一)
(2012年2月12日 読売新聞)