火曜日の朝七時五十八分。名古屋市中村区の武藤靖子さん(75)は毎週、この時間を楽しみにしている。不自由な目の治療に向かう地下鉄の乗り換えで、きまって車内へ案内してくれる人がいるからだ。微妙に変わるドアの位置や、通勤ラッシュの列に合わせて歩きだすタイミング…。戸惑う武藤さんに手を差し伸べる役はこの春、先輩から後輩へと引き継がれた。
山口愛未さん
「おはようございます」
二十三日朝、地下鉄伏見駅。東山線から鶴舞線に乗り換えようと、白杖(はくじょう)を頼りに壁際をゆっくり歩く武藤さんに、中京銀行浄心支店(同市西区)へ通勤途中の田上雄也さん(25)があいさつした。顔いっぱいに笑みを浮かべる武藤さんに腕を貸し、列の後ろについて車内へ。武藤さんが愛知県岩倉市の治療院へ通う際に続く習慣だ。田上さんは同じ銀行の先輩から、この役割を託された。
浄心支店勤務だった山口愛未(まなみ)さん。昨年冬、同じ駅のホームで、降車する人波にさらわれそうになる武藤さんを見て声をかけた。周囲は通勤や通学を急ぐ人たち。気になって、毎週待つようになった。
三月、山口さんは市内の別の支店へ転勤に。「きょうで最後です」。別れ際にそう告げられた武藤さんは、「名前も勤め先も、聞いておけばよかった。なんだか、聞くのがはばかられちゃって…」。
武藤さんは網膜の難病で、五年ほど前からほとんど目が見えなくなった。左右に振りながら進路を探る白杖がぶつかり、通行人に怒鳴られたこともある。四年前には、自宅近くの駅で柵のないホームから落ち、レールで背中を強打した。
「つらい話が多い中で、助けてもらえるのがありがたくて、ありがたくて」
そんな思いを感じていた山口さんは、こっそり後輩に“引き継ぎ”をしていた。選ばれたのが、入行二年目の田上さん。「体の不自由な人を手助けしたくても、相手が迷惑だったら…と思って、声をかけられなかった。むしろありがたいです」と話す。
朝、同乗するのは六、七分。武藤さんが「出身は?」「お仕事は?」と矢継ぎ早に質問するのは、何も聞けずに山口さんと別れたことを悔いているからだ。会話の花が咲く車内に、壁はもうない。
田上雄也さん(左から2人目)の介助で車両に乗り込む武藤靖子さん=名古屋市中区の地下鉄鶴舞線伏見駅で
◆駅ホーム、転落対策急ぐ
線路への転落事故を防ぐため、名古屋市交通局は、地下鉄の駅のホームに可動式の柵の設置を進めている。これまでに桜通線と上飯田線の全二十三駅に設置。今年九月からは東山線でも全駅に整備し、二〇二〇年度までに全八十七駅の九割で対策を終える予定だ。
駅のホームは、視覚障害者にとって「欄干のない橋」とたとえられることがある。伏見駅で介助をしてもらっている中村区の武藤靖子さんは「柵があると安心」と話す。
ただ、国土交通省によると、全国に九千五百ある駅のうち、転落防止策が講じられているのは五百九十三駅(一四年九月時点)と6%にすぎない。国は東京五輪・パラリンピックが開かれる二〇年までに八百駅での整備完了を目指しているが、地域によって対策への温度差は縮まらない。
日本盲人会連合(東京)によると、一一年にまとめたアンケートでは、視覚障害者の37%がホームから転落したことがあると回答。同連合によると、首都圏では東京五輪に向けて全駅への設置目標を掲げる鉄道会社もあるが、地方で数値目標を公表する事業者はほとんどないという。
自身も全盲の鈴木孝幸副会長は「地方には視覚障害者が利用する無人駅もある。首都圏だけでは困る」と話す一方、「手を引いたり、かばんにつかまらせてくれたりするだけで安心して電車に乗れる」と周囲のサポートの重要性を指摘する。
2015年6月23日 中日新聞