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ベンチで眠る黒猫

2018年08月20日 10時30分13秒 | Weblog
ベンチで眠る黒猫

今朝は
涼しい風が吹き
日陰は 散歩向き

いつも訪れる公園に
丸い木のベンチがあって
今朝は そこで
いつもの黒猫が
すやすやと眠っている

前は 何度か
横たわる姿を見て
息をしていないのではと
心配して
覗き込んだこともある

今日 その黒猫が
首輪をしていることに
気がついた

よくはわからないが
飼い猫かもしれないな

それにしても
逞しい猫さんだな

餌のことも忘れ
酷暑からも逃れ
今こそ まさに
至福の時 かな?

我が家の黒猫も
家の中で 時々
まったりと休んでいる

猫には 平和が似合うね

Ps2018.8.20
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地獄のような酷暑の中で その2

2018年08月20日 05時53分39秒 | Weblog
地獄のような酷暑の中で その2
2018.8.9:8.10 に思う

今朝もまた迷ったが
何とか散歩の第一歩を
踏み出して 結局
今日も 5000歩を越えた
(1日のトータルは
11100歩を越えてしまっていた)
(この頃は 1日で
約7000から11000歩の間)

今日の最高気温は36.9°Cで
地獄のような酷暑の一日
覚悟はしてるが
身体の疲労は
年寄りの身には 半端ない
まさに 地獄の如き炎天下で
今日もまた生きている

当地は ここ一週間も
34〜37度前後になるようで
それこそ命を奪われないように
それぞれが防御しなくてはならぬ

Ps2018.8.9 草稿 8.20 追記
8/10 も同じような状況である
8/20 も同じく36/27度の予想
今日(8/9)は 73年前 長崎市に
原爆が投下された日
8/6 は 広島市に原爆が落とされた

原爆の熱線に当たった人は
今年のような熱波どころではなかった
たちまち蒸発した身体
焼け焦げてしまった体
ひどい火傷に覆われた体
ガラスの破片などが刺さった体
髪の毛が抜け落ちた頭部
そして
見た目はそれ程損傷していないようで
実は 内臓などを傷めた体
それから
命は助かっても
肉親や友人知人を亡くした人
住む家をなくした人
働く場をなくした人
学び舎をなくした人
生きる希望や夢を壊された人

かけがえのない人生
取り替えようがない身体
引き返せない過去の生活
奪われた未来と希望と夢と

我が身を
当時の人たちの一人ひとりに
当てはめると 胸が潰れそうだ

深い悲しみと
やりようのない怒りと
どうしようもない辛さと

1945年(昭和20年)8/9
母は 海の向こうに
キノコ雲を見たと言う
嫁ぐ前 海岸近くに
住んでいたから
見通しがよくて
見えたのだろう

叔母は 戦前 広島県の
福山市に嫁いでいる
原爆落下当時は
夫(伯父)の転勤で
県外に住んでいたらしい

みんな多くは語らなかったが
私たちは
学校で 書籍で 映画で 漫画で
原爆や被爆のことを
たくさん学んできた

また 私は
個人的にも
長崎を6回訪れている
平和祈念像を仰ぎ
被爆者の方のお話を聴いた

三十数年前の8月9日には
家族4人で
長崎のバスツアーに参加して
数々の原爆遺跡などを訪ねた
バス車内では
ガイドさんのお話に
我が身や我が子に重ねて
夫婦して涙した

私は かつて 縁あって
長崎市中心部にあった
新興善小学校を訪ね
八月に二日間滞在したことがある
年譜を辿れば
閉校も間近な頃のようだ

*以下、新興善小学校について
(1945年以降・ウィキペディアより)
1945年(昭和20年)
・8月被爆直後 - 原爆の大きな被害により、長崎医科大学本部と附属病院が新興善国民学校を仮収容所として患者診療を開始。
・10月6日 - 新興善救護病院が長崎医科大学附属病院となり、調来助教授が院長に就任。
・11月上旬 - 長崎医科大学本部が長崎経済専門学校から新興善国民学校に移転。
・10月6日 - 新興善救護病院が長崎医科大学附属病院となり、調来助教授が院長に就任。
・11月上旬 - 長崎医科大学本部が長崎経済専門学校から新興善国民学校に移転。
・1951年(昭和26年)12月25日 - 新興善小学校(興善町15番地)にあった長崎大学本部と附属外来診療所が興善町35番地へ移転し、新興善小学校が復帰。
・1997年(平成9年)3月31日 - 統廃合により閉校。123年の歴史に幕を下ろす。
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