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哲ノート

gentle heart!! ヤサシイココロ・オトナノココロ

きょうあったこと  -あんぽほうあん-

2015-09-19 22:52:05 | 出来事
「安保法案可決」

人それぞれいろんな意見を持っているのは当たり前だし、その意見をあらゆる形で表現するのも自由な事です。

それは国家という権力者が関与してもいけないし、ましてや封じ込めることはあってはいけない事です。

今回の出来事は、その中身が大きく問題化されていますが、それは大いに議論を加えて、だれもが納得するものにしていけばいいだろうし、

絶対反対、絶対賛成、全否定、全部賛成の中にもお互いの妥協点を探るのもまた必要なことだと思う。

ただそれを少しでもおろそかなものにすると、反発の声が上がるのは至極当然である。

「疑問」

このような事案は(もしそれが正しいと判断されるならば)それを実行するために「憲法の解釈変更」ではなく「憲法改正」をすればいいのではないだろうか…。

なぜ国の行く末を変えてしまうような大きな事案を、ひとりの独裁首相のもとこんなにも拙速に成立させなければいけないのか。(なにを焦ることがあるのだろうか)

「結局」

今の政府はまず「秘密保護法」を成立させて「秘密」をいつでも駆使できるようして、憲法の「解釈変更」を身勝手にまかり通ることができるようにしてしまった。

「このことにより」

時の政府・政権の主義主張次第で「秘密保護法」と「憲法解釈」を盾に「戦争」ができる国家になってしまった。

「そして」

同盟国(まあアメリカの事だな)と対峙している国家から見れば、りっぱな敵国であり、りっぱな戦争当事国とみなされることになった。

今の平穏な生活の中に、いままでは無縁に近い状態であった「戦争」「テロ」というコトバがより現実的なこととなった。

「さらに」

日本の権力中枢に影響力にある武器産業(商人)からみれば、当然歓迎されるところであり、

歴史に名を残したい今の独裁者も「俺が…俺が大国と肩を並べる(戦争ができることによる)一流国家したんだぞっと自負する」のであろうか。



「平和国家」を自負してきた戦後日本の終焉であり、脈々と受け継流れてきた「日本国」という諸外国からの存在意義が根底から崩れ去った。

「軍事をもって平和を成す」という、わけのわからん積極的平和主義なんてごまかすくらいなら、アメリカの軍事グローバル戦略のよきパートナーとして

“アメリカの犬になりさがった”と言えば、もっと国民にある意味理解されたんじゃないだろうか…。

国の長い歴史のなかで、一つの内閣一人の独裁者によって自己満足とともに半ば強引に国の方針・国の方向転換がおこなわれ、しかも

国民の声を聴かず、議論もせず、国民を愚弄する政治屋たちが横行し、主権は民衆にあるのであって、その民衆から選ばれた政治屋が選んでくれた民衆をあざ笑う行為とは…。


いつまでもこの出来事から離れず、冷めずに声を上げ続け、「選挙」の形で大いに民衆の主張を貫こう。

リベラルな反対派有識者によって、「違憲訴訟」を全国的におこして、「憲法解釈」の是非と「解釈変更」の違憲性をしっかり判断してもらって、実行を阻止しなければならない。

また「国家権力」「政権権力」においすがるみじめな政治屋に、「これでいいのか…」自問自答と自省をうながし、まだ間に合う勇気ある「英断」を求める。

まだまだ「何が起きるか」不確定要素のある今回の「安保法制」「憲法解釈」であるが、熱の冷めやすい国民性からして、いつかは“なあなあぁ”となってしまうのだろうか

いやいや、今回の事案は今後の日本の行く末を決めてしまう国民ひとりひとりが見極めなければいけない事案であり、国家権力を好き勝手にもてあそぶような権力者に

印籠を渡したままだといけないのだ。

いまの独裁者はかならず「支持回復」のために「甘いコトバ」をささやき、なりふり構わずの「ばらまき経済行動」を起こすであろう。

だが、今回の事件で民衆は独裁者を作り出してしまったことを学習し、その功罪を判断する能力を持ち合わせたのだ。

そんな「甘い誘惑」に屈することなく、「民衆のコトバ」「民衆のチカラ」を大いに持ち合わせるべきであり、行動・発言を繰り返すべきである。

法案は成立はしてしまったが、まだまだ民衆・国民にはやるべきことがあるのだ。













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